--- 情報提供者:kuontuiさん ---

(17)702原宿事変
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憂国十年 北走西馳 成否在天 魂魄帰地
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憂国十年 東走西馳 成否在天 魂魄歸地
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平野国臣
【解説:憂国十年 東走西馳 成否在天 魂魄歸地】
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憂国十年 東走西馳
成否在天 魂魄歸地
<その15> 2002/7/25
憂国十年 東走西馳
(ゆうこくじゅうねん とうそうせいち)
成否は天に在り 魂魄地に帰す
(せいひはてんにあり こんぱくちにきす)
<ponpoko流 意訳>
憂国の思いに駆られ
私はこの10年という年月を
国事に東奔西走して過ごしてきた
私がこれまでしてきたことの成否は
今はただ天にゆだねよう
私の魂は土に帰っていくのだから
平野国臣・辞世の「頌(じゅ)」。
「頌」は4句からなる漢詩の文体の1つで、通常は君主や名君の徳をたたえたり、
仏徳や教理を賛美する場合に用いるものらしい。
平野が辞世を詠むに際し、どうしてこのような特殊な文体を用いたのかはわからない。
けれども、勤王の志士であると同時に、優れた歌人でもあった彼にふさわしい、
見事な作品であることだけは間違いない。
平野国臣は筑前・黒田藩の足軽の家に生まれた。妻と3人の子を捨てて志士活動に身を投じるも、
生野義挙に失敗して捕らえられ、京都の六角獄舎で処刑された。
元治元年7月19日。禁門の変が勃発し洛中で大規模な火災が発生した。
翌日、六角獄に火の手が迫りつつあるのを見て、
破獄を恐れた役人たちは獄舎に繋がれている者全員を処刑してしまった。
平野国臣も他の志士たちと共に殺害された。この時彼は数えで37歳。
けれどもその頭髪は老人のように真っ白だったという。
結局、六角獄は燃えなかったが、死んでしまった者は生き返らない。何ともひどい話である。
余談になるが、平野は変装の名人だったという。
清水寺の僧・月照の逃避行を助けた時は修行僧に扮していたし、
備中連島(現在の倉敷市)の豪商に匿われている間は店の番頭になりすましていた。
手習いの師匠だった時もあれば、
飛脚に化けていた時もある(彼は脱藩者だったから常に藩の捕り手に追われていた)。
こういう特技を持っていたからこそ、風雲の渦中にありながら37歳まで生きることができたのだろう。
人は死の直前に自らの生涯を走馬灯のように脳裏によみがえらせると言うが、
辞世を詠む彼の脳裏にはどのような情景が浮かび上がっていたのだろう。
憂国十年 東走西馳
成否在天 魂魄歸地
平野国臣の辞世には彼の波乱の生涯が凝縮されている。
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「幕末の詩歌」より一部抜粋
http://homepage3.nifty.com/ponpoko-y/hitokoto/hitokoto-15.htm
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(17)702原宿事変
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憂国十年 北走西馳 成否在天 魂魄帰地
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憂国十年 東走西馳 成否在天 魂魄歸地
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平野国臣
【解説:憂国十年 東走西馳 成否在天 魂魄歸地】
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憂国十年 東走西馳
成否在天 魂魄歸地
<その15> 2002/7/25
憂国十年 東走西馳
(ゆうこくじゅうねん とうそうせいち)
成否は天に在り 魂魄地に帰す
(せいひはてんにあり こんぱくちにきす)
<ponpoko流 意訳>
憂国の思いに駆られ
私はこの10年という年月を
国事に東奔西走して過ごしてきた
私がこれまでしてきたことの成否は
今はただ天にゆだねよう
私の魂は土に帰っていくのだから
平野国臣・辞世の「頌(じゅ)」。
「頌」は4句からなる漢詩の文体の1つで、通常は君主や名君の徳をたたえたり、
仏徳や教理を賛美する場合に用いるものらしい。
平野が辞世を詠むに際し、どうしてこのような特殊な文体を用いたのかはわからない。
けれども、勤王の志士であると同時に、優れた歌人でもあった彼にふさわしい、
見事な作品であることだけは間違いない。
平野国臣は筑前・黒田藩の足軽の家に生まれた。妻と3人の子を捨てて志士活動に身を投じるも、
生野義挙に失敗して捕らえられ、京都の六角獄舎で処刑された。
元治元年7月19日。禁門の変が勃発し洛中で大規模な火災が発生した。
翌日、六角獄に火の手が迫りつつあるのを見て、
破獄を恐れた役人たちは獄舎に繋がれている者全員を処刑してしまった。
平野国臣も他の志士たちと共に殺害された。この時彼は数えで37歳。
けれどもその頭髪は老人のように真っ白だったという。
結局、六角獄は燃えなかったが、死んでしまった者は生き返らない。何ともひどい話である。
余談になるが、平野は変装の名人だったという。
清水寺の僧・月照の逃避行を助けた時は修行僧に扮していたし、
備中連島(現在の倉敷市)の豪商に匿われている間は店の番頭になりすましていた。
手習いの師匠だった時もあれば、
飛脚に化けていた時もある(彼は脱藩者だったから常に藩の捕り手に追われていた)。
こういう特技を持っていたからこそ、風雲の渦中にありながら37歳まで生きることができたのだろう。
人は死の直前に自らの生涯を走馬灯のように脳裏によみがえらせると言うが、
辞世を詠む彼の脳裏にはどのような情景が浮かび上がっていたのだろう。
憂国十年 東走西馳
成否在天 魂魄歸地
平野国臣の辞世には彼の波乱の生涯が凝縮されている。
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「幕末の詩歌」より一部抜粋
http://homepage3.nifty.com/ponpoko-y/hitokoto/hitokoto-15.htm
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最終更新日 : -0001-11-30