【報告書】作成者:ましろ

Top Page › ARG事例 RYOMA【日誌】 › 【7/1日誌】短冊(12)東京
2009-07-02 (Thu) 08:18

【7/1日誌】短冊(12)東京

--- 情報提供者:LIONさん、ワイジローさん、輪舞さん ---

12東京

(12)東京
------------------------------------------------------------
なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節は 泣くとこそきけ
------------------------------------------------------------
(正)
------------------------------------------------------------
なよ竹の 風にまかする 身なからも たわまぬ節は ありとこそきけ
------------------------------------------------------------
西郷千重子

【解説:なよ竹の 風にまかする 身なからも たわまぬ節は ありとこそきけ】
-----------------------------------------------------------------------------
<その18> 2003/4/15

慶応4年8月23日。
薩摩・長州・土佐・佐土原・大村・大垣の6藩からなる約2000名の新政府軍が大挙して会津城下に攻め込んだ。
この日から9月22日までの1カ月にわたり、会津藩は絶望的な籠城戦を戦い抜くのだが、
足手まといになることを恐れ、籠城することなく自らの命を絶った藩士の家族が230人余りもいたという。

会津藩筆頭家老だった西郷頼母の妻・千重子もその1人だった。
「私たちもお城に入り君公に従いたいとは思いますが、
女子供が押しかけていったのでは、かえって足手まといになりましょう。
むしろ自刃して藩に殉じる道を選びたいと思います。私たちの死すべきは今日この時です。
いたずらに生をぬすんで後世に恥を残してはなりません」

夫を戦場へ、11歳の息子をお城へ送り出した後、残った女達は、全員が千重子の言葉に従った。

この時千重子は34歳。共に自刃したのは、母・律子(54歳)、妹の眉寿子(26歳)と由布子(23歳)、
長女・細布子(16歳)、次女・瀑布子(13歳)の5名。
他に、田鶴子(9歳)、常盤子(4歳)、季子(2歳)の幼い娘達が、母の手によって命を奪われた。

この日、土佐藩の中島信行は、城からの狙撃を避けるため、城の前に建つ立派な屋敷に入り込んだ。
屋敷には人気がなく、奥の間に足を踏み入れた中島は、多くの女達が死んでいる光景に目を見張った。
呆然と立ち尽くしていると、そのうちの1人が、わずかに身を起こした。

「…あなたは、味方ですか、それとも敵ですか?」
近寄ってみると、若く美しい娘だった。
すでに虫の息で目も見えないらしい。

「味方です!味方の兵です!」
迷わず答えた。娘はかすかに微笑して身辺をさぐり、短刀を取り出して中島に手渡した。

中島が介錯してやったのは、長女の細布子だった。

上記の和歌は、千重子の辞世で、会津若松市の善竜寺には、この和歌を刻んだ歌碑がある。
幕末の会津藩は、男も女も、老人や子供にいたるまで、見事に武士道を貫いた。しかし、あまりにも悲壮である。
----------------------------------------
「幕末の詩歌」より一部抜粋
http://homepage3.nifty.com/ponpoko-y/hitokoto/hitokoto-18.htm
-------------------------------------------------------------------------------------------
スポンサーサイト



最終更新日 : -0001-11-30

Comment







非公開コメント