【報告書】作成者:ましろ

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2009-07-02 (Thu) 08:17

【7/1日誌】短冊(10)東京

--- 情報提供者:LIONさん、ワイジローさん、輪舞さん ---

10東京

(10)東京
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日は いとど恋しく 思ひけり 我がよき友は いづこなるらめ
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(正)
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あめ日は いとど恋しく 思ひけり 我良き友は いずこなるらめ
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伊庭八郎

【解説:雨の日は いとど こひしく思ひけり よき友は いづこなるらめ】
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<その18> 2003/3/9

伊庭八郎は江戸四大道場の1つ、心形刀流・伊庭道場の御曹司として、弘化元年(1844)に生まれています。
幼い頃は病弱で剣術には見向きもしなかったようですが、
16歳の頃に稽古を開始してからは、みるみる腕を上げ「伊庭の小天狗」と異名を取るほどの剣客に成長しました。

21歳の若さで将軍の親衛隊である「奥詰」に抜擢された八郎は、鳥羽伏見の戦い以降、
遊撃隊を率いて官軍相手に奮戦します。

箱根の戦いで片腕を失って後は、榎本武揚らと共に蝦夷地を目指しますが、
彼らが乗っていた船が台風で遭難座礁してしまいます。

やっとの思いで銚子の黒生海岸に上陸したものの、片腕の上、官軍に追われる身では到底逃げ切れない。
絶望した八郎は自殺を決意しますが、仲間に励まされながら必死の潜行活動を続け、
横浜で英語塾を開業していた尺振八の元に転がり込みます。
八郎が尺の元に匿われていたのは、横浜港からイギリス艦に乗り込んで再び蝦夷地を目指すまでの約3カ月間でした。

伊庭八郎は数々の武勇伝を持つ剣豪ですが、この頃、尺の元で英語を学んでいた高橋哲四郎によると、
決して猛々しい男ではなく、「温雅な風情で色が白く、眉目秀麗、俳優のような好男子」だったようです。

尺の英語塾の塾生にまぎれて生活していた彼のもとに、
親友の本山小太郎が古本を手土産に、しばしば訪れたと言います。
そして、八郎が去った後、尺の家には本山が持って来た古本が数十冊もたまっていました。

上記の和歌は、その中の一冊に認められていたものです。
和歌の中に出てくる「我がよき友」は、本山小太郎のことだったのでしょうか。
当初、小太郎は蝦夷へ行く気はなかったようですが、
最終的には八郎と一緒に蝦夷へ渡り、八郎の亡くなる一月前に戦死しています。
幕臣の小太郎は、八郎と以前からの友人で、遊撃隊に入ったのも八郎がいたからだとされています。

26歳という短い生涯の中で男性からも女性からも愛された隻腕の美剣士は、
親友を思ってやさしい和歌を詠む、寂しがりやでもあったようです。
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「幕末の詩歌」より一部抜粋
http://homepage3.nifty.com/ponpoko-y/hitokoto/hitokoto-18.htm
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最終更新日 : -0001-11-30

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