--- 情報提供者:gomaさん ---

(5)横浜
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われもまた 花のもとにと おもひしに 若葉の下の きゆる命か
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(正)
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われもまた 花のもとにと おもひしに 若葉のかげに きゆる命か
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中島三郎助
【解説:われもまた 花のもとにと おもひしに 若葉のかげに きゆる命か】
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<その18> 2003/2/10
中島三郎助は日本で最初に黒船に乗り込み、交渉にあたった人です。
彼は浦賀奉行所の応接掛与力で、下急の武士に過ぎませんでしたが、
黒船の乗組員が「幕府の高官でなければ交渉に応じない」と言ってきたことから、
「自分は浦賀奉行所の副奉行である」と偽って黒船に乗り込みました。
黒船はアメリカの軍艦で、「大統領からの国書を日本の高官に手渡したい」と言ってきたことから、
今度は与力仲間の香山栄左衛門を浦賀奉行に仕立てて、共に交渉にあたります。
艦上では、大砲の角度を測ったり、あれこれ聞き回ってはメモを採ったりして、ペリー側のひんしゅくをかっていますが、
実は三郎助は、砲術の第一人者であり、嘉永7年(1854)5月に、幕命により浦賀奉行所が
10門の大砲を備えた軍艦・鳳凰丸を建造した折にはプロジェクトメンバーに名を連ねています。
桂小五郎が吉田松陰の薦めに従って中島三郎助に弟子入りしたのは安政2年(1855)の7月のことです。
三郎助が長崎海軍伝習所に出向することになったため、
小五郎が三郎助のもとで学んだのはわずか1カ月という短い期間でしたが、
文久元年には小五郎が縮木綿の反物を手土産に三郎助を訪問したりして、両者の交流はその後も続いたようです。
慶応3年(1868)1月。鳥羽伏見の戦いを皮切りに、官軍と幕府軍に間で戊辰戦争の火蓋が切って落とされました。
三郎助は2人の息子を伴って、榎本武揚らと共に蝦夷地を目指し、
榎本政権のもとで函館奉行並という役職につきました。
明治2年(1869)5月15日。函館を制圧した討幕軍は、五稜郭を目指して進軍を開始。
榎本武揚は、五稜郭の前面にあたる千代ヶ岡の台場を守っていた三郎助に、ただちに退却するよう命じましたが、
三郎助は「我はこの地を墳墓と定め候」と言い放ち、決して台場を離れませんでした。
16日未明。薩摩藩を先陣とする討幕軍の攻撃が始まり、中島三郎助は胸を撃たれて戦死。
長男の恒太郎は刀をふりかざして敵軍に切り込み、次男の英次郎も胸と腹を撃たれて亡くなりました。
三郎助が明治2年(1869)3月に母に宛てた書状の中には、
「あらし吹く ゆうべの花ぞ めでたけれ ちらで過べき 世にしあらねば」という和歌が、
4月に妻のすずに宛てた書状には
「われもまた 花のもとにと おもひしに 若葉のかげに きゆる命か」という和歌が認められており、
この2首が三郎助の辞世になりました。
享年49歳。
2人の息子共々壮絶に散った中島三郎助は、優れた頭脳と知識の持ち主であり、
生きていれば榎本武揚と同様に、明治新政府に取り立てられて活躍したかも知れません、
けれども、彼自身は、そんな未来を夢想だにせず、幕臣としての潔く散る道を選んでいます。
これもまた武士道であり、男の美学と言えるかも知れません。
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「幕末の詩歌」より一部抜粋
http://homepage3.nifty.com/ponpoko-y/hitokoto/hitokoto-18.htm
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(5)横浜
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われもまた 花のもとにと おもひしに 若葉の下の きゆる命か
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(正)
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われもまた 花のもとにと おもひしに 若葉のかげに きゆる命か
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中島三郎助
【解説:われもまた 花のもとにと おもひしに 若葉のかげに きゆる命か】
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<その18> 2003/2/10
中島三郎助は日本で最初に黒船に乗り込み、交渉にあたった人です。
彼は浦賀奉行所の応接掛与力で、下急の武士に過ぎませんでしたが、
黒船の乗組員が「幕府の高官でなければ交渉に応じない」と言ってきたことから、
「自分は浦賀奉行所の副奉行である」と偽って黒船に乗り込みました。
黒船はアメリカの軍艦で、「大統領からの国書を日本の高官に手渡したい」と言ってきたことから、
今度は与力仲間の香山栄左衛門を浦賀奉行に仕立てて、共に交渉にあたります。
艦上では、大砲の角度を測ったり、あれこれ聞き回ってはメモを採ったりして、ペリー側のひんしゅくをかっていますが、
実は三郎助は、砲術の第一人者であり、嘉永7年(1854)5月に、幕命により浦賀奉行所が
10門の大砲を備えた軍艦・鳳凰丸を建造した折にはプロジェクトメンバーに名を連ねています。
桂小五郎が吉田松陰の薦めに従って中島三郎助に弟子入りしたのは安政2年(1855)の7月のことです。
三郎助が長崎海軍伝習所に出向することになったため、
小五郎が三郎助のもとで学んだのはわずか1カ月という短い期間でしたが、
文久元年には小五郎が縮木綿の反物を手土産に三郎助を訪問したりして、両者の交流はその後も続いたようです。
慶応3年(1868)1月。鳥羽伏見の戦いを皮切りに、官軍と幕府軍に間で戊辰戦争の火蓋が切って落とされました。
三郎助は2人の息子を伴って、榎本武揚らと共に蝦夷地を目指し、
榎本政権のもとで函館奉行並という役職につきました。
明治2年(1869)5月15日。函館を制圧した討幕軍は、五稜郭を目指して進軍を開始。
榎本武揚は、五稜郭の前面にあたる千代ヶ岡の台場を守っていた三郎助に、ただちに退却するよう命じましたが、
三郎助は「我はこの地を墳墓と定め候」と言い放ち、決して台場を離れませんでした。
16日未明。薩摩藩を先陣とする討幕軍の攻撃が始まり、中島三郎助は胸を撃たれて戦死。
長男の恒太郎は刀をふりかざして敵軍に切り込み、次男の英次郎も胸と腹を撃たれて亡くなりました。
三郎助が明治2年(1869)3月に母に宛てた書状の中には、
「あらし吹く ゆうべの花ぞ めでたけれ ちらで過べき 世にしあらねば」という和歌が、
4月に妻のすずに宛てた書状には
「われもまた 花のもとにと おもひしに 若葉のかげに きゆる命か」という和歌が認められており、
この2首が三郎助の辞世になりました。
享年49歳。
2人の息子共々壮絶に散った中島三郎助は、優れた頭脳と知識の持ち主であり、
生きていれば榎本武揚と同様に、明治新政府に取り立てられて活躍したかも知れません、
けれども、彼自身は、そんな未来を夢想だにせず、幕臣としての潔く散る道を選んでいます。
これもまた武士道であり、男の美学と言えるかも知れません。
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「幕末の詩歌」より一部抜粋
http://homepage3.nifty.com/ponpoko-y/hitokoto/hitokoto-18.htm
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最終更新日 : -0001-11-30