
※ベートーヴェンの視点:唐崎(滋賀)「本のがんこ堂 唐崎店」にて発見。
三日ほど前から私はベートーヴェンだ。
とりあえず好きな偉人を選びなさいといわ
れたのでベートーヴェンにしておいた。彼に
ついて、特別詳しいわけではない。ぱっと思
い出せるのは運命の頭を第九くらいで、一般
常識にも及ばない程度の知識だ。でもその名
前には愛着があったので、まあいいかという
くらいの気持ちだった。潜入調査のための一
時的な名前だし、本当に好きな偉人なんて考
え始めると、とても一晩ではひとりに絞り込
めない。それよりも潜入調査への期待と不安
で胸がいっぱいである。
どうやらクリスマスイヴに、聖夜協会と呼
ばれる謎の組織の元にセンセイを名乗る謎の
首領が戻ってきて懇親会という名の怪しげ
なパーティをひらくらしいとのことで、「行
く?」と尋ねられたから「そりゃもちろん行
きます」と答えざるを得なかったわけだけれ
ど、いまだに五割くらいどっきりじゃないか
と疑っている。イヴにこんな小粋なサプライ
ズパーティを仕掛けるようなウィットに富ん
だ友人はいただろうか?
なんにせよパーティに参加する者の義務と
して、まずは招待状に記載されている住所を
尋ねなければならないとかで、私は馬鹿みた
いに忙しい年末進行の中、祝日をまともに休
んで早朝から滋賀県に富んだのだった。
※
滋賀に訪れるのはこれが初めてだ、と一瞬
思ったけれど、琵琶湖で泳いだ記憶があるの
で二度目だ。琵琶湖は身体が浮きづらくてず
いぶん疲れたけれど、口の中がしょっぱく
なったり髪がべとついたりしないのでその辺
りの海よりも好感が持てる。
目的地は琵琶湖の片隅にある書店だった。
うかがう前にPCの地図で確認すると右半分
に巨大な青い範囲が映ったので海かと思った
がそれが琵琶湖だった。さらに地図を縮小す
ると、元々みえていたのが琵琶湖の下の方の
ほんの狭い範囲だとわかって戦慄した。やは
り琵琶湖は偉大である。
私は高架になっている駅を出て、歩道の広
い道路をまっすぐに南に走った。寒いと走り
出したくなる。おそらく人体が熱を求めてい
るのだろう。その点でこの辺りの土地は最適
だ。冬の澄んだ空が頭上に広がっていた。視
界を遮るものが少なくて、気持ちがいい。立
派な街路樹の影を同じリズムで踏みつけてい
るとマラソンランナーみたいな気分になる。
やや入り組んだ道を抜け、再び大通りに出
ると、正面の、家と家のあいだから琵琶湖が
覗く。
目的の書店は簡素な住宅街にあった。白い
壁と、広い駐車場。そして「本」だけが赤字
になったわかりやすい看板。
私は店内に入る直前で、呼吸を整える。大
した距離でもないのに息が上がっていた。最
近、身体がなまっているかもしれない。ちょ
うど自動販売機があったので、お茶を買って
飲む。脇の駐輪場に設置されているカプセル
トイに気を取られていると、携帯電話が鳴っ
た。「ドイル」という名前で登録している番
号だった。聖夜協会員のひとりとして紹介さ
れた人物だ。
「やあ。本屋には着いたかな?」
と受話器から声が聞こえた。
「はい。ちょうど今、到着したところです」
「そう。様子は?」
「まだ店の前なので、何とも」
「それは悪かったね。じゃあ--」
相手が電話を切る気配がしたので、慌てて
私は叫ぶ。
「ちょっと待ってください!せっかくな
ので聖夜協会のことを少し教えてもらってい
いでしょうか?」
ドイルさんは、喋り方は柔らかいけれどな
かなか電話に出てくれない。取材のチャンス
を逃してはならない。
「いいよ。なにが知りたいんだろう?」
「聖夜協会って、結局どんな組織なんです
か?」
「簡単に言ってしまえば社交クラブみたい
なものだよ。気の合う人たちがたまに顔を合
わせて、お酒を飲んで、雑談する。残念なが
らそれだけだ」
それだけなわけがない、と、私のジャーナ
リストとしての第六感が告げている。
「でも主催のセンセイという人は、なかなか
姿を現さないんですよね?」
「ああ、うん。オレもよく事情を知らないけ
どね、たぶん忙しいんだろう」
「どんな人なんですか?」
「さあね。オレも会ったことがないんだ。な
にぶん、新人なものでね」
君の方が詳しいんじゃないのかい? とド
イルさんが言った。
「え?どうして?」
「だって君、アルベルトの紹介だろ」
「どうやらそうらしいですね」
確かに私はアルベルトという人物の紹介で
聖夜協会に入ったことになっているけれど、
その人のことも知らない。
「なんにせよ、質問があればアルベルトに訊
いた方がいい」
「アルベルトさんって偉い人なんですか?」
「聖夜協会に上限関係はない。アルベルトは
最古参のひとりだと聞いているよ。とはいえ
彼女も長い間、聖夜協会には顔を出していな
いから、オレも面識はないな」
「そうなんですか」
アルベルトが女性だということも。私は
初めて知った。
「二四日の懇親会は楽しみだよ。残念ながら
オレには招待状が届いていないけどね。セン
セイとアルベルトがそろって姿を現すという
のは、とても珍しいことだ」
謎だらけである。なにもわからない。
とりあえず私は、気になっていた点を尋ね
てみる。
「懇親会って、参加費はいかほどですか?」
正直、あまりお金はないのだ。
電話の向こうで、はは、と笑い声が聞こえ
た。
「君は気にしなくていいよ」
「いえでも」
「本当に。ま、友達の家の飲み会にでも誘わ
れたとでも考えればいい。気になるなら、な
にかセンセイにプレゼントを持っていくとい
いよ」
クリスマス会だからね、と彼は笑う。
「センセイって、どんなものが好きなんです
か?」
「さぁ。子供っぽいものが好きな人だと聞い
ているけどね。男の子が喜びそうなものなら
だいたい気に入るんじゃないかな」
なかなか難しい。いくらくらいの予算がベ
ストなんだろう? ハンズで買ったもので気
に入ってもらえるだろうか。
「あ、あと、服は? ドレスですか?」
「なんでもいいよ。みんなラフなものだ。カ
ジュアルな格好でいいい」
その答えがいちばん困るのだ。カジュア
ルってなんだ。フリースでいいのか。それと
も明るい色のスーツとかだろうか。
「ともかく本屋でなにかみつかったら連絡
してね。ああ、それと--」
彼は笑い声を含んだ声で言う。
「もしアルベルトに会ったら、尋ねてみて欲
しい。貴女のプレゼントはなんですか、と」
「はあ」
アルベルトさんも、センセイにプレゼント
を持っていくのだろうか。
じゃあねと言って、ドイルさんは電話を
切ってしまった。なんだか胡散臭い人だな、
というのが私の感想だ。
※
気を取り直して、お茶を飲み切って、私は
本屋に入る。実のところ、この本屋でなにを
すればいいのかもわかっていなかった。なに
かみつかったら連絡してくれといわれても困
る。ここでは本屋にありそうなものしかみつ
かりそうになかった。
私はセンセイへのプレゼントに頭を悩ませ
ながら、書店をぐるりと回ってみる。男の子
が喜びそうなもの、と言っても、この店の前
にあったカプセルトイで済ませるというわけ
にもいかないだろう。ゲームソフトか? で
もハードを持っているかわからない。ハード
から買うとお金がかかり過ぎるし、もしか
ぶっていたりすると最悪だ。そもそも男の
子っぽいものといっても、ゲーム機というの
は違うだろう。
と、ぼんやり店内をうろうろしていたら、
後ろから声をかけられた。
「ねぇ、お姉さん」
小学生くらいの少年が立っている。
「これ、落としたよ」
少年はメモ用紙を一枚、差し出す。
「ありがと--」
お礼を言いながら、受け取った。でもそれ
は私のメモではなかった。硬めの、たぶん男
性の字で、こう書かれている。
キーのひとつは、絵画が語る。
ミレー・ルノワール・ビアスタット・レン
ブラント・ゴッホ・コロー・モネ・ドーソン・
シスレー・ゴッホ。
世界の偉大な画家たちに感謝を。
聞き覚えのある画家の名前が並んでいる。
それはそれとして、私は少年に尋ねる。
「ねぇ、クリスマスに何が欲しい?」
プレゼント選びは苦手なのだ。
でも少年は首を傾げるだけで何も答えず、
走って本屋から出ていってしまった。
キーのひとつは、絵画が語る。
ミレー・ルノワール・ビアスタット・レンブラント・ゴッホ・
コロー・モネ・ドーソン・シスレー・ゴッホ。
世界の偉大な画家たちに感謝を。

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最終更新日 : 2014-12-31