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その電話がかかってきたのは、22時30分になるころだった。
スマートフォンのディスプレイには、見覚えのない番号が表示されていた。
応答のボタンを押すと、男の声が聞こえた。
「久瀬さんのお電話ですか?」
はい、とオレは答える。
笑い声が聞えたわけでもなかったが、電話の向こうで、男が笑ったような気がした。
「八千代と申します。何度もお電話、すみませんねぇ」
ようやくだ。オレはスマートフォンをにぎる手に力を込める。
「いえ。折り返させてしまってすみません。どうしてもお願いしたいことがあったものですから」
「へぇ。なんでしょう」
「聖夜協会の連絡名簿を拝見させていただきたいんです」
八千代は妙に大げさなアクセントで、「聖夜協会」と繰り返した。
「どうして、そんなものを?」
この男に、素直に事情を話す気にはなれなかった。
――こいつは聖夜協会員だ。
ドイルか、アカテ。そのどちらかの名前で呼ばれている可能性が高いと、ソルたちから聞いている。
事前に用意していた嘘を、オレは告げる。
「以前、父も聖夜協会に所属していました」
「はい」
「その父が、先週倒れました」
「それは大変だ」
「医者の話では、そう長くは持たないとのことです。ですから、父の友人の連絡先を捜しています」
「なるほど」
八千代の声は、どこか笑い声を含んでいた。
「事情はよくわかりましたよ、久瀬さん。ですがね、貴方はふたつ、間違えている」
「間違い?」
「まず、聖夜協会の連絡役をしていたのはオレじゃない。オレの親父です」
言われてみれば、確かに男の声は若い。オレよりは上だと思うが、十何年も前から聖夜協会の雑務をこなしていたとは考えづらい。
「では、その方の連絡先を教えていただけませんか?」
「慌てちゃいけませんよ、久瀬さん。ふたつ目の間違いがまだです」
妙に芝居がかった喋り方をする男だ。
「なんですか?」
尋ねるとふいに、男は声色を変えた。
こちらを小馬鹿にするように。
「いいかい? 人に頼み事をするときは、誠実じゃなくちゃいけない。君のお父さんはお元気だよ。しばらく死にそうにない」
オレは息を吐き出す。
やっぱり嘘は得意じゃない。よい方法だと思ったのだけど、簡単にルールを破るべきではなかった。
「どうしてわかるんですか?」
とオレは尋ねる。
八千代はくすりと笑った。
「ジンクスなんだ。受話器を取れなかった電話は悪い電話だ。素直に折り返しちゃいけない。だから事前に、君のお父さんの方に電話を入れてみた」
思わず舌打ちしそうになった。気味の悪い男だ。
でも、良い情報もある。
「貴方の手元には連絡名簿があるんですね?」
でなければ、八千代は父に電話できない。
「ああ。ずいぶん古いものだけどね」
「父とは、どんな話を?」
「些細な雑談だよ。君の近況とかね。それから、いなくなった女の子のこと」
あの馬鹿、みさきの話もしたのか。
八千代という男を信用する気にはなれなかった。
でも、せっかく繋がったこの電話を、無意味に終わらせたくもない。
ほんのわずかな時間悩んで、それから、やはり嘘をつくのはやめる。もうこいつがみさきのことを知っているのなら、同じことだ。
「オレは、彼女を助け出したいんです。嘘をついたことは謝ります。ですから、連絡名簿を譲って貰えませんか?」
「どうして、消えた少女と聖夜協会が繋がるんだろう?」
「オレは2人の誘拐犯と顔を合わせています」
すでに捕まっている、サラリーマン風の男。それから、ニール――あのサングラス。
「彼らは聖夜教典という資料を持っていた。おそらく、聖夜協会の資料です」
「どうかな。聖夜なんて、ありふれた言葉だ。そのくらいで疑われちゃ困る」
さすがにソルのことには触れられない。こいつは敵かもしれない。ニールのことも話しづらい。
オレはソルから届いたメールを思い出す。
――あなたはアカテか?
そう尋ねろ、とソルには言われていた。
――そんなこと、訊いていいのか?
妙に相手の情報を知っていることを開示したなら、警戒されるだけじゃないのか?
でもオレは、ソルを信じることに決めていた。これまでだって彼らに救われてきたのだから。
覚悟を決めて、オレは尋ねる。
「あなたは、アカテですか?」
短い時間、八千代は沈黙した。それからくすりと笑う。
「どこでその名前を?」
答えようがない。
ソルから聞いた、ともいえないし、他に説得力のある理由も思いつかない。
無言でいると、八千代はゆっくりと続ける。
「オレはアカテじゃないよ。それは、友人の名前だ」
「そうですか」
なら、こいつはドイルか?
笑ったような声で八千代は言った。
「ま、いい。君に連絡名簿をみせてあげてもかまわないよ」
――どうして、急に?
アカテという名前を出したからだろうか。
わからない。なんだか、信用できなかった。
疑ったままでオレは、「ありがとうございます」と答える。
「早い方がいいだろう? 直接会おう。明日の、17時30分なら時間がとれる。君は大丈夫かな?」
迷う余地はなかった。
こいつは信用できない。それでも。
今はとにかく動いてみなければ、事態は進展しそうにない。
「大丈夫です」
とオレは応えた。
――17時30分。
聖夜協会の食事会の招待状に記載されている時刻の、1時間ほど前だ。
■佐倉みさき/8月1日/23時
私は清潔なシーツにくるまっていたけれど、リビングからはノイマンがキーボードを叩く音が聞えていて落ち着かない。
彼女の仕事の締め切りは明日だ。聖夜協会から請け負ったという仕事がどうなろうと知ったことではなかったけれど、やはり人が働いている横で眠るのは気がひける。この数日の私の仕事といえば、何度かチャーハンを作ったことくらいだった。
眠れない夜は今後について考える。
ここに来てからずいぶん意識が薄らいでいるけれど、私だって誘拐事件の被害者だ。なんとか状況を打開する方法をみつけたいけれど、それはなかなか難しいことだった。
とにかく脱出すればいい、というわけではないらしい。
ただ脱出するだけであれば、その気になれば、今夜中にでもできそうだった。
私をこの部屋に縛りつけているのは、脱出したあとの不安だ。正体不明の聖夜協会員たちが紛れ込んでいる世界で、どう日常生活を送ればいいというのだろう。
ここから解放されたなら、私は久瀬くんに会いたかった。
あのとき助けに来てくれてありがとうと言いたかった。
でも、もしそこを別の聖夜協会員に襲われたら、と考えると身動きがとれない。
家に戻っても、お母さんや、姉さんのことが不安だ。大学に行っても友人たちが、やはり不安だ。
具体的な鎖や武器ではない、得体のしれない未来への不安をどうにかするのは、難しいことだった。
少しでも聖夜協会の情報が欲しくて、この家の中は一通り調べてみた。でもそれも無意味なことだった。寝室にも、リビングにも、一応は調べたトイレやバスルームにも、手がかりらしい手がかりはなかった。
一体、私はどうすればいいのだろう?
やはり勇気を出してここを抜け出し、警察に駆け込むべきだろうか。でも――
悩んでいると少しずつ、睡魔が近づいてくるのを感じた。それはまるで、こつん、こつんと足音を立てるような。こつん、こつん。ゆっくりと意識が沈み込み――こつん。
ふいに、意識が覚醒する。
足音が、本当に、聞こえた。
錯覚だ、と信じたかった。音が聞こえた方に視線を向ける。
だが、やはり、ベッド脇に人影があった。ノイマン、ではない。もっと大柄な男性。
サングラスの男。――ニールだ。
どうして。寝室の扉が開いた気配すらなかったのに。
反射的に、彼の反対方向にベッドから転がり落ちた。
助けて――叫び声を上げようとする。でも、その前に。
「うるせえよ」
そう吐き捨てて、ニールは私に背を向ける。そのまま、片手をひらひらと振った。
「用があるのはお前じゃない。静かに寝てな」
そうして、こつん、こつんと足音を立てて、部屋を出て行く。ばたん、とドアの閉まる音。
わずか数秒の出来事に、呆気にとられる。
リビングからは、ノイマンの悲鳴のような声が聞こえた。
「ちょっと! 靴を脱ぎなさいよ」
彼女はニールがふいに現れたこと自体は、気にも留めていないようだった。信じたくはないけれど、やっぱりニールには、瞬間移動のようなことができるのだろうか。どうして?
ノイマンの悲鳴のあとは、声は聞こえなかった。
私はベッドを抜け出し、足音をたてないように、そっとドアに近づく。
耳を当てた。でも上手く聞き取れない。
「強硬派が――」「お前でさえ――」「プレゼントなら――」
かろうじて途切れ途切れに拾った言葉はあまりに乏しく、内容は読み解けなかった。
私がこれからどうなるか。久瀬くんがあのあとどうなったか。知りたかったのに、こんな扉一枚が邪魔をする。
――久瀬くん。
彼は今、どうしているだろう?
そのことだけでも聞きたかった。なんならこのドアを開け放ち、あの男の胸倉をつかんででも。
でも実際には、私はドアに爪を立てただけだった。
■久瀬太一/8月1日/24時
目を開いて、ここは夢の中なのだとわかった。
いつの間にかバス停にいた。
なにをすべきかは、もちろんわかっていた。
オレはベンチから立ち上がり、バスに乗り込む。
今日の乗客は2人だった。
きぐるみの少年ロケットと、ひとりの女性。髪の短い女性だ。このあいだバスに乗った時もいた。双子の片方――ビデオカメラを手にしている方だ。
最後尾の座席から、きぐるみがいう。
「よう。ちゃんと生きてたみたいだな」
オレはきぐるみに、「ああ」と応えて、髪の短い女性に声をかける。
「貴女が、リュミエール?」
リュミエール、あるいはグーテンベルク。そのふたりから話をきけ、とソルに言われていた。
こちらを見上げて、彼女は笑った。
「そう。私の名前がわかったのね」
「貴女は、聖夜協会の会員ですか?」
「昔はね。今は違う」
「聖夜協会のことを、教えてください」
だが、彼女は首を振る。
「それはできないわ」
「どうして?」
「ルールだから」
「ルール?」
「私はあなたに、なにも伝えてはいけない。聖夜協会のことも、ソルのことも、プレゼントのこともね」
彼女――リュミエールは、バスの後部座席に視線を向ける。
その先には、あの不気味なきぐるみがいる。
「疑問があるなら、彼に訊きなさい。彼は私よりもずっと強い権限を持っているから」
どういうことだ?
「オレはわからないことだらけなんですよ。少しくらい、教えてくれてもいいでしょう?」
彼女はもう何も答えなかった。
「女の子が誘拐されて、困っているんです。貴女は悪いひとみたいにはみえない。ルールってなんです? それは、誘拐事件を解決するよりも大切なことなんですか?」
やっぱり彼女は、なにも答えない。
オレはため息をついて、後部座席のきぐるみに近づいた。
「お前は知ってるのか? 聖夜協会や、ソルや、プレゼントのことを」
「オレはほとんど、なんにも知らないよ」
でも、と言って、きぐるみは彼女――リュミエールを丸っこい手で指した。
「あいつはリュミエールの光景をプレゼントされたんだ」
「リュミエール兄弟のことか?」
きぐるみは、オレの質問には答えなかった。
「妹の方はグーテンベルクだ。今日はいないがな」
「ヨハン・グーテンベルク」
映写機を作ったリュミエール兄弟と、印刷術のグーテンベルク。
ソルはこのふたりの「プレゼント」で、こっちの情報を知ると言っていた。
――いったい、なんだってんだ。
わからない。わからないことだらけだ。
オレは着ぐるみの隣に腰を下ろす。
「正直、このバスを待ちわびていたよ」
「へぇ。オレに会いたかったのか?」
「お前はどうでもいい。でも、未来を知りたい」
みさきを救い出す手がかりになる未来。それだけが欲しい。
「困ってるんだよ。最近、バスもなかなか来ないし、ソルのスマートフォンの電波もあまり入らない。なんとかならないか?」
「おいおいヒーロー、ずいぶん弱気じゃないか。他人任せか?」
ヒーローってなんだよ。
「みさきが助かるなら、なんでもいい。オレひとりでどうこうする必要はない」
バスのドアが閉まる。
きぐるみは言った。
「未来を変えられるのはソルだけだ。でもさ、お前が動かなきゃ、ソルだってなんにもできなくなっちまうんだぜ」
君が頑張るしかないんだよ、ときぐるみは言った。
バスの外の景色が、ゆっくりと流れはじめる。
■久瀬太一/8月1日/24時05分
バスは長いトンネルを走る。
とりあえずみたい未来は、明日のことだった。
明日、17時30分に、八千代という男に会う。彼を頭から信用する気にはなれない。少しでもヒントを手に入れておきたかった。
加えてその直後には、聖夜協会の食事会がある。それにはソルも参加するらしい。知りたい未来ばかりだ。
オレは、オレンジ色のライトが流れる窓の外を、じっとみつめる。
バスの中に、アナウンスが流れた。男性とも、女性ともつかない、無機質な声。
――次は青と紫の節、9番目の陰の日です。
「は?」
思わず、声が出る。なんて言った? 日付けじゃないのか?
バスが、トンネルを抜けて。
みえた景色に、オレは絶句した。
※
そこは、暗い石造りの通路だった。
昔映画でみた、イタリアかどこかの古い地下水道に似ている。水は溜まっていないが、そんな雰囲気だった。
ただし、巨大だ。
幅も広いし、天井も高い。
オレがその通路に、つったっていた。
――オレ、なのか? 本当に?
妙に仰々しい鎧を身につけている。なんだか現実味のない、青みがかった金属でできた鎧だった。腰にはやけに装飾が立派な剣をさしていた。
でも、そんなことよりも、問題はオレの目の前にる「なにか」だった。
オレは、それの名前を知っていた。でも口に出したくはなかった。そんな馬鹿な、と思った。
それは巨大だ。間近で見上げると首が痛いほどに。
緑色をしていて、全身が鱗に覆われている。その鱗は鋼鉄のように、硬く鈍く輝いている。顔つきは爬虫類に似ている。黄色がかった眼球。瞳孔は切れ目のように縦に長く、真っ黒だ。顔の半分ほどもある口はわずかに開き、隙間から尖った歯が覗いていた。でかい図体に反して、冗談みたいに小さな翼が、背中にちょこんとついていた。
唾を飲む。
それは。
簡単に表現するなら、ドラゴンだった。
巨大なドラゴンが、長い首を折り曲げて、オレを覗き込んでいた。
ドラゴンは巨大な口を開いて叫ぶ。
あまりに大きすぎる音は、よく聞えない。バスの窓ガラスがびりびりと振動する。殴り飛ばされたように、目の前のオレが尻餅をつく。それから這うように逃げ出す。
――と、前方に、ひとりの女性が立っていた。
奇妙な女性だ。髪が青い。全身がほんのりと発光しているようにもみえた。そして、それ以上に、ほんのりと。
彼女は透けているようでもあった。
――幽霊?
そんな言葉が思い浮かぶ。通路の一方にはドラゴンがいて、もう一方には幽霊がいる。
――めちゃくちゃだ。
思考を、放棄したくなるくらいに。
でもとにかくオレは、ドラゴンから逃げる。
青白く輝く幽霊は、右手のドアの向こうへと消えていく。
オレはそのドアのノブをつかんだ。が、開かない。
――鍵がかかっている?
オレは数度、ガンガンとドアノブを動かすが、やはりドアは開かない。気がつけば間近に、ドラゴンが迫っていた。
そいつは雪崩のように、オレにのしかかって。
オレは頭から巨大な口に飲み込まれ、へその辺りで噛み千切られ、まっぷたつになって死んだ。
じゅるり、とそれが血をすする音が聞こえた。
【BAD FLAG-?? 非現実】
※
バスが再びトンネルに入っても、オレは口を開けなかった。
相変わらず気楽な声で、
「なかなか壮絶なラストだったな」
ときぐるみが言った。
「なんだよ、あれ」
「知らないのか? ドラゴンだよドラゴン。最強モンスターだ」
「オレが、ドラゴンに食い殺されるってのか?」
「ソルがなんにもしなけりゃな」
「ありえない」
「どうして?」
きぐるみは、当たり前だけど、表情をかえない。
変わらずにたにたと笑っている。
「未来がみえるバス、ソルからのメール、瞬間移動。これだけ揃ってんだ。どうしてドラゴンだけ嘘だと思うんだ?」
言葉に、詰まった。
まさか。本当にオレは、ドラゴンに食われるのか?
「女の子を助けるんだろう? 生き残れよ、ヒーロー」
次は終点、8月24日です。
そう無機質な声がアナウンスをして、バスはトンネルを抜ける。
なにか念を押すように、目の前で、またみさきが死んだ。
――To be continued
7月31日(木) ← 3D小説「bell」 → 【メリーの視点】 8/1 / 書籍P:284
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最終更新日 : 2015-07-30