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その女性はノイマンと名乗った。
彼女の部屋での生活は、これまでとは雲泥の差だった。
久々にシャワーを浴びることができた。シャンプーなんか私が普段使っているものよりも高級品だった。まっ白なタオルと新品の着替えが用意されていて、1日に3度人間味のある料理を食べ、夜は清潔なシーツと膨らんだ枕で眠った。口にガムテープを張られることもなかった。
なによりも嬉しかったのは、ようやく両手を自由に動かせるようになったことだ。私は枕元に畳まれていたジーンズのポケットに手を入れた。そこには、きちんとあのキーホルダーが入っていた。
――よかった。
それがあるだけで、少し救われる。
私には悲しいことなんて起こらない、と、こんな状況でも囁ける。
よし、と気合を入れた。それから私は、寝室の窓を開く。
「助けて!」
思い切り叫ぶと、後頭部を叩かれる。
いつの間にかすぐ後ろに、ノイマンが立っていた。
「うるさいわね。ご近所迷惑でしょ」
そういう問題なのか。この人は誘拐犯としての自覚が足りていないように思う。
「紅茶を淹れたわ。リビングにいらっしゃい」
とノイマンは言った。
なんだか腑に落ちないまま、私はしぶしぶ彼女について部屋を移る。
広いリビングだ。フローリングは綺麗に掃除されていて、シックなソファにクッションが並んでいて、窓際には観葉植物が置かれて白いレースのカーテンが揺れている。そういうタイプのリビングだった。
私はテーブルにつき、ダックワーズをかじりながらアールグレイに口をつける。なんだこれ。自宅にいる時よりも優雅だ。
「とりあえず、ここから逃げ出そうとするのはやめなさい」
さすがにそういうわけにもいかないが、とりあえず頷いておく。
ノイマンはため息をついた。
「真面目な話、ここが一番安全なのよ。嫌でしょうけどしばらく我慢して」
黙っている方が賢明だとわかってはいたけれど、つい反論する。
「家に帰して貰った方が安全です」
当たり前だ。なのに、ノイマンは首を振る。
「そうでもないのよ。そこが聖夜協会の厄介なところ」
「聖夜協会?」
「そう。私を含めて、貴女を悪魔だとしている組織。知らなかったなら覚えておいた方がいいわ」
私は頷く。
けれど、聖夜協会という名前は知っていた。
それは久瀬くんと出会った、あのクリスマスパーティを開いていた組織だ。ずいぶん幼いころのことなので、記憶がはっきりしないけれど、たしかお祖父ちゃんが所属していたはずだ。
彼女は続ける。
「聖夜協会はね、会員でさえ、他の会員のことを知らないの。私がノイマンなんて大げさな名前で呼ばれているのも、本名を隠すためよ。もちろん個人的に親交がある人たちもいるでしょうけれど、原則、各々の情報は公開しないことになっているわ」
「それが、どうしたんですか?」
「簡単に言ってしまえば、貴女を狙っているのは年齢も性別も職種もばらばらの大勢なのよ。自宅に戻って警察に私やニールのことを話しても、それで貴女は安泰ってわけじゃない。どこの誰だか知らない第三者に、ふいに襲われるわよ」
「聖夜協会すべてを取り締まって貰います」
「無理よ。実際に、これまで貴女の誘拐に関わっているのは、私を含めてもほんの4、5人だもの。協会全体の悪事にはできない。実行犯が捕まって、次の実行犯が生まれるだけよ」
それは。なんだか、無茶苦茶な話のように思えた。
「貴女がここを出て行けば、場合によっては被害者が増えるわ。もしかしたら、貴女の回りも巻き込むような手段をとるかもしれない」
私は思い出す。あの時限爆弾と、久瀬くんのことを。
確かに私は、関係のない久瀬くんを、すでに一度巻き込んでいるのだ。
「私も、一応は貴女を逃がさないように気をつけるけど。手錠もロープも用意していないから、その気になればたぶんどうにでもなるわよ。でもここを逃げ出しても危機はつきまとうし、次に捕まったなら私が引き取るなんて流れにはならないわ。ニールのところでさえ、ずいぶんましなのよ」
ニール。あのサングラス。
確かに、そうなのかもしれない。少なくともあそこにいるあいだは――たとえば時限爆弾のような――具体的な恐怖は感じなかった。例外は拳銃をみつけたときくらいだけれど、その銃口が私を向いたのは、移動させられる最中くらいだった。
ノイマンというこの女性の話が、どこまで正しいのかはわからない。もしかしたらぺらぺらと嘘ばかり並べているのかもしれない。
とはいえ、久瀬くんを巻き込む恐怖に比べれば、ここでの生活はずいぶんましだ。ダックワーズも美味しい。
「わかりました」
と私は頷く。
ノイマンはティーカップの位置を動かし、テーブルの上で頬杖をついた。
「よかったわ。最近の強硬派は、なにをするかわからないから」
「強硬派?」
「ああ。聖夜協会も一枚岩ではないのよ。簡単には穏健派と強硬派に別れるわ。みればわかると思うけど、私は穏健派でニールは強硬派」
なるほど。
敵対する組織のことは、少しでも知っておいた方がいいだろう。
私は重ねて尋ねる。
「強硬派って、なにを強硬するんですか?」
ノイマンは眉間に皴を寄せる。
「なんていうか――うちには、教典みたいなものがあってね。結局は、その解釈の違いよ。具体的には、その教典において貴女は悪魔なわけだけれど」
知らない教典で勝手に悪魔にされても困る。別人ですと主張したい。
「教典には絶対正義の英雄が出てきて、その英雄は悪魔さえ救おうとするわけ。そしてひどい目に遭うの。そこで穏健派の私たちは、英雄の言う通り、悪魔でさえ救うべきだと考える。ある程度の罰を与えて反省を促すとしてもね。でも強硬派は、英雄に血を流させた悪魔なんて決して許してはならない、と言うわけ」
違いはよくわかった。
とはいえ、
「そもそも私は、英雄なんて知らないんですけど」
「変ね。悪魔だった頃の記憶を失ってるのかしら?」
「本気で言ってます?」
「さあ」
ノイマンはくすくす笑う。
「なんにせよ、大雑把にわければ派閥はふたつになるってこと。でもその中でもさらに細分化はされるわ。ニールは一応、強硬派とされるけど、ちょっと特殊だし」
「特殊、ですか」
「彼、貴女に敵意を持っていた?」
そういえば、そんな感じはしなかった。
最初の誘拐犯とは違って、私には無関心だった。
「ニールは、本心ではどちらの派閥にも所属していないつもりなんでしょうね。彼はただメリーを信仰しているようにみえる」
メリー。その名前には、聞き覚えがあった。
「メリーって、なんですか?」
「羊の名前よ」
「本当に?」
「そう。スイマとメリー。ぐっすり眠れそうでしょ」
「スイマっていうのは?」
「聖夜協会員の別名みたいなものよ。メリーは含まないから、やっぱり彼女は特別ね」
メリー、とその名を胸の中で呼んでみる。
ノイマンが続けた。
「もちろんそれは、祝いの言葉でもある。クリスマスの頭につく言葉。ま、とりあえず今の聖夜協会の最高権力者とでも思っておけばいいわ。強硬派も穏健派も、それ以外も、メリーの指示には絶対に従う。なにかルールで定められているわけでもないけれどね。彼らはそこに、救いがあると信じている」
その言い回しで、確信した。
「貴女は、スイマではないんですね?」
でなければ「彼ら」とは表現しない。私たち、であるはずだ。
でもノイマンは首を傾げる。
「どうかしらね。少なくとも私も、メリーの味方よ」
いったい何者なんだろう、と思った。
メリーよりもむしろ、この女性が。
少なくも私は、もうしばらく、この部屋で生活する気になっていた。
■久瀬太一/7月29日/14時
めまいがするくらいに暑い日だった。
夏のなにげない路上の景色が、膨れ上がった空気でゆらゆらと揺らいでいた。
オレは深緑色の軽自動車の助手席で、エアコンの風に手のひらを向けながら、ぼんやりそれを眺めていた。
「なんの用よ?」
と宮野さんは言った。彼女は運転席で、緑色の瓶に入ったラムネをちびちびと飲んでいる。
「スイマの調査、どうなったのか気になって」
「もう話したでしょ。大阪に行って、アパートからスマートフォンとミュージックプレイヤーを借りてきて」
「盗んできて、の間違いでしょう」
「返すつもりはあるわよ」
「なにか目ぼしい情報はみつかりましたか?」
「まったく」
宮野さんは首を振る。
「スマートフォンの方は、着信履歴がいくつかあっただけよ。電話をかけても繋がらない」
「番号は?」
「そんなの聞いて、どうするのよ?」
「オレもスイマに興味が出てきましたから」
「あいにく、暗記はしてないわ」
「今、持ってないんですか?」
「うちに大切に保管してるわ」
それは残念だ。
「ミュージックプレイヤーの方は、どうでした?」
宮野さんが顔をしかめる。
「あんまり、話したくないわね」
「どうして?」
「すごく個人的なものみたいだったから。女の子の声が吹き込まれていたのよ」
「ボイスメッセージ?」
「たぶんね。親しい男の子への」
それは確かに、追及するのは気がひける。とはいえ、今優先すべきなのはみさきだ。
「でも、スイマの手がかりになるかもしれませんよ」
「そう思って10回聴いたわよ。でも、やっぱり手がかりはないと思う」
とはいえ、内容が気になる。
「返すんなら、オレが大阪まで運びましょうか?」
「まだダメ。必要ないと判断したら、郵送するわ。代わりに謝罪文を書いてよ」
「それは自分でしてください」
一応、罪悪感はあるようだ。
オレは宮野さんのセリフが気になって、尋ねる。
「だれが、判断するんですか?」
「え?」
「宮野さんはもう、そこに手がかりがないと思っているんでしょう?」
「ああ。――まあ、依頼人ね」
「依頼人?」
「大手広告主。雑誌の売り上げで利益を出せる時代じゃないのよ。うちがなんとかなってるのは、広告収入が安定しているおかけだから、逆らえないの」
宮野さんは、彼女には似合わないため息をつく。それから、怒った風な口調で言った。
「で、私の愚痴を聞きたくてわざわざ呼び出したわけ?」
もちろん違う。そんなもの、できる限り避けて通りたい。
「その広告主が、スイマについての記事を書けと言ったんですね」
「そうよ。現代人はおしなべて資本主義の犬なのよ。資本主義を類語辞典で調べたら、広告主と書いてたわ」
「うちの辞書では、そうはなっていないと思うけど」
「落丁乱丁誤字脱字の類ね。交換してもらいなさい」
「水曜日の噂を調べるように指示したのも、その広告主ですか?」
「そうよ」
間違いない。
その広告主が、きっと鍵を握っている。
「広告主って、どんな人ですか?」
「あんたには関係ないでしょ」
「オレだってアルバイトですからね。お得意様のことは気になりますよ」
嘘だ。この事件に巻き込まれてから、よく嘘をついている。気がすすまないことだったが、真実をすべて話すわけにもいかない。
「ならちょっとは働きなさい。時給800円でいい?」
と宮野さんは言った。
「ずいぶん目減りしてませんか?」
前回は日給1万だった。
「13時間働いたら前よりも儲かるでしょ」
まあ、とりあえず金のことはいい。
「働いたら、広告主のことを教えて貰えるんですか?」
「私の知ってることならね」
「できるだけ時間を作りますよ。だから、お願いします」
宮野さんが、ちらりとこちらをみる。
「なんかあったの?」
「なにがです?」
「なんとなく、必死そうだから」
「オレにもいろんな事情があるんですよ」
「そう。ま、そんなもんよね」
彼女は意外に、あっさりと引き下がった。相手が取材対象でなければ、それなりに常識的な人なのかもしれない。
「とはいえその広告主について、私もそれほど詳しいわけじゃないのよ。あるデザイン会社の社長なんだけど、会ったこともないしね」
「連絡は、どうやって取っているんですか?」
「いつもメールよ」
「そのアドレス、教えて貰えますか?」
「広告主の情報をアルバイトに開示できると思う?」
「でも、広告には連絡先くらい載っていますよね」
「まあね」
彼女はラムネ瓶をドリンクホルダーに落とし込んでから、身を乗り出すようにして後部座席の鞄に手を伸ばした。その中から一冊の雑誌を取り出し、こちら寄こす。
真っ黒な表紙にドクロのデザインを載せた、ロックンロールかなにかをイメージさせる雑誌だった。これが『ベートーヴェン』か。はじめてみた。
「なんかいろんな人が、間違えて手に取りそうな表紙ですね」
「大丈夫よ。そうそう書店にないから」
いちばん最後のページよ。と宮野さんが言う。
オレは裏表紙を開いた。どこか田舎の海辺に、古めかしい自転車が2台並んで止まっている写真だ。よくみると片隅に、ふたりぶんの影が映り込んでいる。でも人の姿はみえない。ノスタルジックな景色だった。
写真にはコピーがついている。――ずっとむかし、あなたがみた景色を知っています。
それから小さく、会社の名前。shiroデザイン事務所。
メールアドレスは載っていた。情報はそれだけだった。電話番号もwebページのアドレスもない。都市伝説を扱う雑誌にはまったく似つかわしくない広告だと思った。
「これで、お客さんが増えるんですかね」
「さあね。そんなの私の知ったことじゃないわ」
「広告主の名前は?」
「知らない。メールの署名はいつも、yukiになってるわね」
「ユキ」
雪?
「この雑誌、貰ってもかまいませんか?」
「社員割引で売ってあげるわ」
「給料から引いておいてください」
これで、宮野さんに会った用件の8割くらいは終わりだ。できればスマートフォンとミュージックプレイヤーを手にいれたかったが、今日は難しそうだ。
最後にオレは、好奇心で尋ねる。
「大阪のアパートって、どんな感じでしたか?」
そこにはソルがいたはずだ。彼らについては口止めされているから詳しくは尋ねられないが、興味があった。
※
それから30分ほど彼女と雑談して過ごし、深緑色の軽を見送ってから、オレは1通のメールを送った。
宛て先は、ユキ――ベートヴェンにあまり効果のなさそうな広告を載せいてる、謎の人物。宮野さんに水曜日の噂と、そしてスイマを探らせた何者か。
ずいぶん悩んだ結果、文面はずいぶんシンプルになった。
はじめまして、久瀬太一と申します。
オレはスイマに接触したことがあります。
情報を共有したいので、ぜひ、ご連絡ください。
返信は、すぐにあった。
おそらく自動返信なのだろう。
――今は対応できない。
とだけ、無愛想に書かれていた。
仕事用のメールアドレスだとは、とても思えない。
――To be continued
【3D小説『bell』運営より】
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7月28日(月) ← 3D小説「bell」 → 7月30日(水)
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最終更新日 : 2015-07-30