

※『ある誘拐犯の視点』:有隣堂 ヨドバシAKIBA店にて発見。
書店に来ていた。
心を落ち着けるために、ある文庫本を買お
うと思ったのだ。家の本棚にはすでにあるも
のだが、持ち歩くためにもう一冊、手に入れ
ておこうと思った。
在庫検索の結果に従って、私は角川文庫の
棚の前に立つ。
※
私はあの人を知らない。
会に所属してまだ三年ほどだ。そのころに
はもう、あの人はいなくなっていた。だから
言葉を交わしたことはおろか、顔をみたこと
さえない。
それでも古株の会員たちにも、あの人への
信仰が劣っているとは思わない。実際のとこ
ろ会の活動に関しては、古株よりも新人たち
のほうが熱心なように思う。
会に対して、疑問を抱くことは多い。
あの人はいくつもの奇跡を、わかりやすい
形で残していったのだから、まともな理性が
あれば信仰するに足りるとわかる。
だがたとえば、その奇跡を現に受け取って
いるニールという男でさえ、先生の帰還を熱
心に願っているとは思えなかった。
私は彼に、ついに悪魔の正体を突き止めた
と報告した。だから捕らえるのに協力して欲
しい、と願い出た。
本当は私ひとりでもよかったのだ。外見が
少女であれ、悪魔を捕らえるのに罪悪感など
ない。悪魔がどれほど強力な力を持っていよ
うが私は怖れない。ただニールにも花を持た
せてやろうとしただけだ。あいつは小箱を開
くための情報を手中に収めている。逆恨みで
へそを曲げられて私の手柄を奪われるような
ことになれば厄介だ。
だから誘ってやったのだ。なのにあいつは
概して協力的ではなかった。思い出しても腹
が立つ。
「気が向いたら顔を出すよ」
なんだ、その言い草は。
きっとあいつは立て続けに手柄を立てる私
に嫉妬しているのだ。たった三年であの小箱
を開く名誉を与えられ、食事会場の下見とい
う任務も請け負った。まだ連絡がきてはいな
いが、おそらく次の食事会には私もよばれる
ことになるだろう。あるいは栄誉ある発表さ
え依頼されるかもしれない。
さらには独自の調査で悪魔の正体を暴
き、そしてもうすぐ悪魔を始末する。完璧だ。
慈悲深いあの人は、相手が悪魔であれ直接
手を下すことは許さなかったそうだ。であれ
ば悪魔には自ら死を選ばせる必要がある。悪
者には自滅が似合う。
その準備さえ整っていた。あとはすべてを
実行するだけだ。もうすぐ私の苦労は報われ
る。そう、七月二十五日の日暮れとともに。
当然、私は称賛されるだろう。勝ち誇るつ
もりはないが、未来は約束されている。あの
人が帰還したとき、また新しい奇跡がこの世
界に生まれるとき、メリーは私にプレゼント
を贈るはずだ。これだけの働きをした私をな
いがしろにできるはずがない。
すべては約束されている。
私の計画に破綻はない。
本当は、だれもが皆、私に手を差し伸べる
べきなのだ。
なのに、ニール。
いったいなんなんだ、あいつは。
私は崇高な目的を持っている。強硬派どこ
ろかすべての会員の中でもっとも純朴で穢れ
のない目的だ。
なのに。
私はただ、強硬派が持つセーフハウスの場
所を教えてくれと言っただけなのだ。むろん
全ては悪魔を始末するために。
なのにあいつは、その程度の融通も効かせ
はしなかった。
神聖な用途で派閥のセーフハウスを使
う、ただそれだけのために、私は一週間もく
だらない問題と向き合うはめになった。マス
目の多い、マニアックな将棋のことまで調べ
た。まったくあり得ないことだ。
むろん、あの人がこの手の謎解きを好んだ
ことは知っている。教会内で極秘の扱いを受
ける情報は教典など、会員にしかわからない
事実を絡めた問いかけの形で伝えるというの
も知っている。
だが、事情が事情なのだ。それに私が熱心
な会員だということを、あいつだって理解し
ているだろう。この手の警戒に意味はない。
嫉妬だ。くだらない嫉妬に足を引っ張られ
て、私はあの廃ホテルの場所を知るのに一週
間も時間を使った。
くそっ。だが、いい。
七月二五日。その日が暮れるころ、悪魔は
あの廃ホテルで命を落とす。
※
私は心を落ち着けるために、深く息をすっ
て、寺山修司の言葉を思い出す。
--不幸な物語のあとには、かならず幸福
な人生が出番をまっています。
もうすぐ私の幸福な人生が始まる。
私は本棚から、目的の本を抜き出した。
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最終更新日 : 2014-12-20