★書籍には「7/25 公開されなかったシーン」として「メリーの視点」が掲載されています。 / 書籍P:130
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夢をみていた。
幼い女の子が泣いている夢だった。
オレは走っていた。
彼女を笑わせたかった。
それが全部だった。
だから――
そうだ。確か、突拍子のない嘘をついて。どうしようもない夢みたいな話をして、つまらないプレゼントをあげて。
それで、あの子は泣き止んだのだろうか?
記憶の中の女の子に、昨日バスからみた映像が重なる。瓦礫の中に倒れて、血を流しているいる彼女。
――彼女は、みさきだ。
佐倉みさき。
あの子を泣き止ませたくて、オレは嘘をついた。
その嘘を真実にしたいと、心の底から願っていた。
あれはきっと、オレのための嘘だったから。
嘘を嘘のままにしてはいけないんだと、決めたんだ。
※
目を覚ましたときには、ひどく悲しい気分だった。
佐倉みさき。
その名前をもう一度、胸の中で繰り返す。
彼女に最後に会ったのは、まだ小学生のころだ。彼女がどんな風に成長しているのかなんて、オレにはわからない。
それでもなぜか、疑えなかった。
瓦礫の中で血を流していたのは佐倉みさきだ。理由なんてなくても確信していた。
――くそ。一体、何が起こるっていうんだよ。
あのバスには確か、『7月25日行き』と書かれていた。
今日、彼女が血を流すのだろうか? どうして。
硬いフローリングの上で身体を起こす。腕がなにかにぶつかり、がたんと硬い音が聞こえた。すぐ隣にあのアタッシェケースが転がっていた。
――そうだ。
オレは暗証番号を「000」から順番に試していたのだ。夜が明ける頃まではその作業を続けていた記憶がある。でも、どうやら途中で眠ってしまったらしい。
――寝てる場合じゃないだろ。
自分自身にぼやいて、オレはアタッシェケースをつかむ。番号は407に合っていた。そのまま小さなレバーに力を入れる。だが動かない。
くそ。このアタッシェケースがなんだってんだ? ――いますぐ彼女を捜しにいきたかった。でもオレは彼女の居場所を知らない。連絡先もわからない。他にはどうすることもできなくて、オレは動かしづらいダイアルをひとつずらして、またレバーに触れた。
と。
かちん、と小さな音が鳴る。
あっけなくアタッシェケースのロックが外れる。
408?
――オレの誕生日だ。
ふいにそんなことが思い浮かんで、馬鹿馬鹿しくなる。今はささやかな偶然に、のんきに驚いている場合じゃない。
オレはアタッシェケースの蓋を開けた。
※
アタッシェケースには、2つのものが入っていた。
一方は小さな箱だ。奇妙な南京錠のようなものが4つもついている。それはみるからに厳重で、簡単には開きそうにない。
もう一方は、手作りのちゃちな小冊子だった。表紙には味気ないフォントで、『聖夜教典』と書かれていた。
ページをめくってみる。
なにかが、床に舞い落ちた。ぜんぶで6枚。
うち1枚はちっぽけなレシートだ。――いや、違う。これは、書籍検索の結果か? 知っている書店の名前が書かれていた。
残りの5枚は、すべてA4サイズのプリント用紙だった。
うち2枚は見覚えがある。クロスワードパズルの問題用紙と、解答用紙。あとの3枚もすべて、暗号かなにかみたいだった。
オレはとりあえずトランクの中身を、テーブルの上に並べる。![]()
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――これが、なんだってんだ?
問題を解けば、みさきの居場所がわかるのか? どうして。
まったくわけがわからなかった。
オレはつい、ソルのスマートフォンを手に取る。
だがそのスマートフォンは、左上の表示が「圏外」になっている。
昨夜――あの事故を回避してから、ソルとの電波は繋がっていない。
■久瀬太一/7月25日/11時15分
佐倉みさきに出会ったのは、あるホテルで毎年行われていたクリスマスパーティだった。父親が友人に誘われていたとかで、幼いころはオレも毎年そのパーティに参加していた。オレはそのパーティが嫌いじゃなかった。美味い料理が食えるから。
そこにみさきもいた。彼女は双子だった。見分けがつかないほどよく似た顔立ちのお姉さん――確か、ちえりという名前だ――と並んでいたから、それで驚いたのを覚えている。小学生なんてほとんどいないパーティだったから、オレは自然と、彼女たちとよく話をしていた。
ふと、不思議な気分になる。
どうしてオレは、バスの窓からみた彼女を、みさきだと思ったのだろう? 同じ顔のちえりもいるのだから、そちらだと思ってもおかしくない。でもなぜだか、瓦礫の中で血を流す彼女はみさきにみえた。ちえりにはみえなかった。
彼女たちと顔を合わせるのは、あの、年に一度のクリスマスパーティだけだった。パーティには小学校の途中からいかなくなってしまったし、それっきりふたりには会っていない。手がかりといえるのは、あのパーティしかない。
オレは父の携帯に電話をかけてみたが、無機質なアナウンスが聞こえるだけだった。――おかけになった番号は現在電源が入っていないか、電波が届かない場所にあります。
父はまた充電をし忘れているようだ。何度注意しても直らない。「なんか電波って気持ち悪いんだよ」と彼は言う。
――結局、こいつをどうにかするしかないのか。
オレはテーブルに並んだ暗号たちをざっと見渡す。うんざりした。こういうのはあまり、得意ではない。
――これを解けば、みさきの居場所がわかるのか?
あのバスからみたオレはこれを解いて、手遅れだったとしても彼女の元に辿り着いたのか?
一体、どうなっているんだ。どうしてレストランで受け取ったトランクから、みさきの居場所を示す暗号が出てくるんだ? わけがわからない。
思わず内心で愚痴るが、本来ならそんな暇もない。
バスの窓からみえたオレは、間に合わなかったのだ。みさきは血を流したのだ。
あのオレよりも早く、暗号を解かなければならない。
オレは『聖夜教典』と書かれた小冊子に、5枚の暗号用紙を挟んで、鞄に入れた。少し悩んだがアタッシェケースは置いていくことにする。身軽な方がいい。
オレは肩に鞄をかけ、書籍検索の結果を手に部屋を出る。
――こいつが、一番わかりやすい。
本屋に行って、手がかりがみつかるとも思えなかった。でもとにかく、ひとつずつ潰していこう。
オレは乱暴に脱ぎ捨てていたスニーカーに足を突っ込んだ。
★久瀬へ:ソルです、クロスワードは完成しています
→【制作者からのメール】 賢明で行動力に溢れる諸君。 残念だが、現在は電波が入っていない。
今回送信されたメールは、近々彼に届くだろう。
■久瀬太一/7月25日/11時45分
レシートの書店には、これまでにも何度か行ったことがあった。
大きな電気屋の7階に入っている書店で、たいていの本はみつかる。でも今日は呑気に、書架をみて回るわけにはいかなかった。
オレはひとりの店員に声をかける。
「すみません、トランクを拾ったんですが」
店員は顔をあげる。眼鏡をかけた女性だった。
「あ、はい。忘れ物ですね?」
「いえ、あの。そのトランクに、これが入っていて」
オレは、書籍検索の結果をその店員にみせる。
「きっとトランクの持ち主が、こちらで本を買ったと思うんです」
店員は眉間に皴を寄せる。
「ちょっとわからないですね。そのトランク、お預かりしましょうか?」
「いえ」
そりゃそうだ。こういう大きな書店なら、購入者はデータで管理している可能性が高い。でもそのデータの詳細を店員が把握しているとも思えないし、もし知っていても簡単には教えてもらえないだろう。
――食い下がるか?
女の子の命を左右すると言って?
でもそんなこと、オレには証明できない。証明できるならまず警察に駆け込んでいる。
悩んでいると、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
「すみません。別を当たってみます」
オレはそう告げて、店員から離れた。
※
メールが届いていた。
着信があったのは、あのきぐるみから受け取ったスマートフォンだった。
送信者はソル――ではない。
タイトル欄に、「制作者」と書かれていた。
――制作者?
一体、なんの制作者だ?
そういえばソルから届いていたメールには、このスマートフォンのアドレスは「主人公」という名前で登録されていると書かれていた。
主人公と、制作者。
詳細はわからないが、なにかしらリンクを感じる言葉だ。
オレはそのメールを開く。
※
君にはみつけられないものがある。
君には解けない謎がある。
一方でソルにさえ、俯瞰できないものもある。
君とソルが力を合わせた時、はじめて物語は書き換わる。
ソルは遠い世界にいる。
だが間違いなく、君の世界を照らす。
※
オレは額を押さえる。
だから、ソルって誰なんだよ。
■久瀬太一/7月25日/12時
近場の喫茶店に入り、アイスコーヒーを注文する。
それから、鞄の中から『聖夜教典』を取り出し、挟んでいた暗号をテーブルに広げた。さっぱりわからない。
問題の写メを友人数人に送ってみたところ、ひとりから「現実逃避か?」と返信があった。しばらく意味がわからなかったが、そういえば今日は企業合同説明会だ。
事情を話せば、誰か協力してくれるだろうか? ――いや、時間の無駄だろう。もし「未来がみえるバスに乗って、女の子が倒れていて――」なんてことを友人が言い出したなら、オレだって現実逃避かと思う。
――ソル。
今、オレが頼れるのは、正体のわからない、どこかの誰かだけだった。
――お前なら、この暗号を解けるのか?
腕時計に目をやる回数が増えていることに気づき、舌打ちする。今は暗号に集中するべきだ。知っていたけれど、どうしても瓦礫の中に倒れたみさきの姿がフラッシュバックする。
オレに彼女を救えるだろうか?
目についたのは、いくつもの写真やイラストなどが並んだ暗号だった。上部の左に「CHAPTER」、右に「VERSE」と書かれている。
――章と、節か?
オレはテーブルの上にあった『聖夜教典』を開く。それは細かく章で区切られ、そして各段落に節の番号が振られている。
――暗号は、これを指しているのか?
オレはその冊子のページをめくる。それが教典だとは、オレには思えなかった。作りがチープすぎるというのもある。なによりも内容が、教典らしくなかった。
そこにはある少年に関するエピソードが断片的に記されていた。ある英雄的な少年。時に友人を助け、時に大人たちの過ちを裁く。でも特別な力はなにも持っていない。
元々は、暗号の手がかりを探すつもりでページを開いた。
でも読み進めるうちに、違和感に気づく。
――オレは、このエピソードを知っている?
知っている、どころじゃない。
体験したことがある。
明らかに誇張されていた。幼い頃のオレには、これほどの勇気も、正義感もなかった。でもそこに並んでいるエピソードはすべて、身に覚えのあるものだった。
――偶然、なのか?
こんな偶然、あり得るのか?
ふいに思い出す。あのアタッシェケースの暗証番号は、オレの誕生日だった。
★★★暗号(1):135章85節 ※誤答
★★★暗号(3):16章25節
■久瀬太一/7月25日/12時05分
アイスコーヒーの隣の、スマートフォンが震えた。
オレは慌てて、それをつかみとる。
――ソル、からだ!
オレはメールを開く。
本文はたった一行。
※
ソルです、クロスワードは完成しています
※
そして、そこには本当に、埋まったクロスワードの画像が添付されていた。
★久瀬へ:新聞かネットで昨日の事故はやってるか
→【久瀬さんからの返信】 昨日、車に乗っているときラジオで聞いた。
あと、ネットでも地域のニュースにはなっているみたいだな。
★久瀬へ:「聖夜教典」の135章85節を読んでください
■久瀬太一/7月25日/12時15分
また。ソルからメールだ。
オレは思わず苦笑する。
どこで知ったのかクロスワードパズルの答えを送ってきたと思えば、事故について質問する。そこにはなんだか、純粋な好奇心のようなものを感じた。
オレはメールを開く。
※
「聖夜教典」の135章85節を読んでください
※
だから、なんでこっちの事情を知ってんだよ。
オレは聖夜教典を開く。
が、すぐに気づいた。
――ない。
135章なんてもの、存在しない。
この教典には、23章までしか載っていない。
――どういうことだ?
ソルも、間違えることがあるのだろうか?
★久瀬へ:教典に書かれてることをしたとき、一緒にいたもしくはその内容すべて知っている人物がいるか
→【制作者からのメール】 先ほど送信されたメールは、「100の謎」のトリガーとなる情報が含まれているため、
彼には届かない。 近々、対応する100の謎を公開する。
★久瀬へ:ごめんなさい、こちらも少し焦っています。16章25節に書いてあることを教えてください
■久瀬太一/7月25日/12時45分
ごめんなさい、こちらも少し焦っています。16章25節に書いてあることを教えてください
※
オレはソルからのメールを読み、すぐに聖夜教典を開く。
謝られても困る。オレひとりなら、まだクロスワードも埋まっていなかっただろうから。
――16章25節
その地下室で、彼はいくつもの夢に触れた。その夢たちが彼の教師だった。
地下室?
なにか、思い出しそうな気がした。
やはりこの小冊子は、オレの記憶に繋がっている。
夢。教師。わかりそうで、でもはっきりとはわからない。
まだ情報が足りない。
★久瀬へ:17章27節だと思います
■久瀬太一/7月25日/12時50分
また、スマートフォンが震える。
※
17章27節だと思います
※
やはり、章と節を指示する文章だ。
オレは『聖夜教典』を開く。
――17章27節
巨大な塔は常に彼を見下ろしていた。
一瞬。その風景が、目の前に浮かんだような気がした。
幼いころ、確かにオレは、その景色をみた。
もう少しで、なにか思い出せる。
★久瀬へ:ソルはあなたや宮野さん、2人の佐倉さん、他にも困っている人がいればその人も助けるために
一生懸命です。間違うこともあるかも知れませんが、信じてやってください
→【久瀬さんからの返信】 昨日はソルのおかげでオレも宮野さんも助かった。 もちろん信じるよ。
★久瀬へ:ソルは一人ではなくて集団なので、時々、情報が錯綜して矛盾する内容のメールが届いたりするかも
しれませんが、どうか多めに見てください。集団であるが故にクロスワードをあんなに早く解けたりもするのです
→【久瀬さんからの返信】 わかった。助かる。ありがとう。
★久瀬へ:私たちは断片的にしかあなたの状況がわからないのでいろいろ教えてほしい。
佐倉さんに最後に会ったのはいつ?連絡先は知ってる?彼女からのクリスマスカードに返信したことはある?
→【久瀬さんからの返信】 最後に会ったのは、ずいぶん前だ。小学2年生のころだったと思う。
連絡先もわからない。クリスマスカードにも、思い当らない。
★久瀬へ:企業合同説明会の方は時間大丈夫なのか聞いてくれる?久瀬くんの方のスケジュールも大事だし
→【久瀬さんからの返信】 そっちは、まあもちろん大切だけど、女の子の命ほどじゃない。
就職先は一通り問題が片付いてからなんとかするよ。
■久瀬太一/7月25日/13時15分
次に届いたメールは、暗号への解答ではなかった。
※
ソルはあなたや宮野さん、2人の佐倉さん、他にも困っている人がいればその人も助けるために一生懸命です。間違うこともあるかも知れませんが、信じてやってください
※
信じるのは当然だ、と思った。
オレは素直に、メールを返す。
――昨日はソルのおかげでオレも宮野さんも助かった。
もちろん信じるよ。
送信ボタンを押して、それから思い当る。
宮野さん、と言って、ソルに伝わるだろうか?
でもソルは、こちらの事情をすべて知っているような気もした。
と、続けてまた、スマートフォンが震える。
※
ソルは一人ではなくて集団なので、時々、情報が錯綜して矛盾する内容のメールが届いたりもするかもしれませんが、どうか多めに見てください。集団であるが故にクロスワードをあんなに早く解けたりもするのです
※
なるほど。
そういえば昨日メールで、「われわれ」と表現していたような気がする。
――わかった。助かる。ありがとう。
返信するのとほとんど同時に、またメールが届いた。
※
私たちは断片的にしかあなたの状況がわからないのでいろいろ教えてほしい。佐倉さんに最後に会ったのはいつ?連絡先は知ってる?彼女からのクリスマスカードに返信したことはある?
※
どうして、そんなことを?
まあいい。これだけ助けられているんだから、無視もできない。
――最後に会ったのは、ずいぶん前だ。小学2年生のころだったと思う。連絡先もわからない。
クリスマスカード? 記憶になかった。
思い当らない、と書き足す。
その間に届いていた、次のメールを開く。
※
ベルくん企業合同説明会の方は時間大丈夫なのか聞いてくれる?久瀬くんの方のスケジュールも大事だし
※
つい笑う。いったい、なんなんだ、ソルってやつらは。
あまりに非現実的な存在なのに、強引に現実に引き戻された気がした。
そっちは、まあもちろん大切だけど、女の子の命ほどじゃない。
就職先は一通り問題が片付いてからなんとかするよと返信した。
★★★暗号(2):13章17節
★久瀬へ:9:102 または比をとって3:34 102節がないかもしれないので9章102節か、3章34節で試してみてください
→【久瀬さんからの返信】 9章102節と、3章34節を確認してみた。 でも、上手く記憶がつながらないんだ。
別の場所の可能性はないか?
★久瀬へ:21章26節を確認してほしい
→【久瀬さんからの返信】 21章は22節までしかない。 他の可能性はないか?
★久瀬へ:13章17節を読んでくれませんか?
→【久瀬さんからの返信】 ありがとう。おおよその場所がわかった。 今すぐそこに向かう。
でもまだ場所を特定できない。他のヒントはないかな?
■久瀬太一/7月25日/13時55分
――13章17節
そのベンチで、彼はいつも母親を待っていた。そのベンチが、彼に待つことを教えた。
わかった。
ようやく、思い出した。
地下室。巨大な塔。それから、ベンチ。
あの小さな公園の、小さなベンチ。
間違いない。オレが幼いころ、ほんの半年に満たない期間だけ暮らしていた街だ。
――でも、あの街の、どこだ?
どこにみさきはいる?
ともかく駅に向かおう。
オレはソルにメールを打つ。
それから氷が解けて薄くなったアイスコーヒーを飲み干し、伝票をつかんで、喫茶店の席を立った。
★久瀬へ:佐倉先輩の電話番号は"050-3171-7100"かも。"こっち"からは連絡できないけど、
"そっち"からなら出来るかも。できそうだったら、20時頃に佐倉先輩がどこに行くつもりか聞いてみてくれないかな?
→【久瀬さんからの返信】 わかった。移動中だから、駅についたらその番号に電話する。
★久瀬へ:教典に書かれてた出来事の時どこに住んでたか
→【久瀬さんからの返信】 答えづらいな。 幼いころは父の転勤が多かったせいで、いろんなところにいた。
東京にもいたし、秋田とか、名古屋とか、広島とか。
教典には、その辺りのことがごちゃまぜに書かれているみたいだ。
★久瀬へ:5月10日、11月19日に覚えがないか
→【久瀬さんからの返信】 すまないが、とくに思い当らない。
★久瀬へ:どこの駅で降りるつもりか、後その公園の名前を。
→【制作者からのメール】 先ほど送信されたメールは、「100の謎」のトリガーとなる情報が含まれているため、
彼には届かない。 近々、対応する100の謎を公開する。
★久瀬へ:久瀬くんのTwitterアカウントあったら教えて、もしかしたらヒントがあるかもしれないから!
→【久瀬さんからの返信】 Twitterはやってないんだ。
・【久瀬さんからのメール】 そろそろ駅に着く。 050-3171-7100に電話をかけてみる。
■久瀬太一/7月25日/14時50分 ※ほぼ同時刻にソルが現地、秋葉原へ到着。
オレは電車を降り、ホームの片隅で電話をかける。
050-3171-7100。
ソルから指定された、みさきの番号だ。
彼女と話すのは久しぶりだ。少し、緊張した。なによりも今、元気な声を聞きたかった。
けれど。
――おかけになった電話番号は、使用されておりません。
聞えてきたのは、無機質で機械的な音声だった。
どういうことだ?
みさきは、電話番号をかえたのだろうか?
頭を掻いて、オレはソルにメールを打った。
★★★有隣堂ヨドバシAKIBA店にて『ある誘拐犯の視点』を発見。
・誘拐犯は「あの人」を知らない。言葉を交わしたことはおろか、顔をみたことさえない。誘拐犯が入会した3年前、あの人はいなくなっていた。3年で小箱を開く名誉を与えられ、食事会場の下見という任務を請け負った。次の食事会に呼ばれて栄誉ある発表を依頼されるかもしれない。独自の調査で悪魔の正体を暴き、始末しようとした。強硬派どころかすべての会員の中でもっとも純朴で穢れのない、崇高な目的を持っている。
・会の活動は古株よりも新人たちの方が熱心。強硬派はセーフハウス(=廃ホテル)を持っている。
・あの人はいくつもの奇跡を、わかりやすい形で残していった。「あの人が帰還したとき、また新しい奇跡がこの世界に生まれるとき、メリーは私にプレゼントを贈るはずだ。これだけの働きをした私をないがしろにできるはずがない。」
・慈悲深いあの人は相手が悪魔であれ直接手を下すことは許さなかったらしい。悪魔には自ら死を選ばせる必要がある。悪者には自滅が似合う。
・あの人は謎解きを好んだ。教会内で極秘の扱いを受ける情報は教典など、会員にしかわからない事実を絡めた問いかけの形で伝える。
・奇跡を受け取ったニールでさえ、先生の帰還を熱心に願っているとは思えない。小箱を開けるための情報を手中に収めている。
・【久瀬さんからのメール】 電話は繋がらなかった。 その番号は、今は使われてないみたいだ。
★久瀬へ:場所は廃ホテル。久瀬君の向かっている先に、該当するような廃ホテルがあるか
→【久瀬さんからの返信】 ありがとう!
■久瀬太一/7月25日/15時58分
あのバスの窓からみえた景色を捜して、オレは幼いころ暮らした街を走っていた。
暑い。息が上がる。
両手を膝についたとき、スマートフォンが震えた。
オレは反射的にそれを取り出し、メールを開く。
※
佐倉さんは、廃ホテルにつかまっているみたいです。
近くに廃ホテルはありませんか?
※
廃ホテル。
ひとつだけ、思い当る。
――ありがとう!
オレは急いでそう返信し、また駆けだした。
■久瀬太一/7月25日/16時
目の前にみえた大きな歩道橋を駆け上がる。人通りが多い。サラリーマンに肩をぶつけて、走りながら頭を下げる。
そんな馬鹿な、という思いもあった。
どうして暗号の答えが、オレの記憶と関係しているんだ?
常識的に考えて、論理的に考えて、あり得ない。
――でも。
今は、ごちゃごちゃと考え事をしている場合じゃない。
オレは走る。
頭がまっ白になるまで、全力で。
――本気で走れば、女の子のピンチには間に合うはずだろ。
世界はきっと、そういう風にできているんだ。そうでなければならない。根拠もないが信じている。信じるほかに、どうしろってんだ。
歩道橋を下り、狭い坂道に入った。そのまま、坂を駆け上がる。この辺りには坂が多い。
周囲の景色は、ずいぶんと様変わりしていた。オレの記憶もあやふやだった。それでも道の幅やガードレールに、仄かな懐かしさを覚えていた。
2度、角を曲がる。ひたすら走る。地面のおうとつに足をとられる。オレはそれを知っていた。少しバランスを崩したが、転倒せずに走り続ける。
――その地下室で、彼はいくつもの夢に触れた。
地下に子供教室が入っている建物の前を駆け抜ける。その建物だけは、オレの記憶と、なにも変わっていなかった。
そのまままっすぐに走り、突き当りを左折した。前方を見上げると、巨大な建物がみえる。
――巨大な塔は常に彼を見下ろしていた。
たしかにそれは、ファンタジーゲームに登場する、背の高い塔のようだった。
目的地は目の前だったが、線路を超える道がない。忘れていた。この辺りの地形は入り組んでいる。舌打ちして、立体交差の方へと向かう。
息が上がっていた。立体交差を駆け抜けながら、左手をみると小さな公園がみえた。木陰にささやかなベンチが佇んでいる。
――彼はいつも母親を待っていた。そのベンチが、彼に待つことを教えた。
今は疲れた様子の中年男性が、そこに腰を下ろしている。
立体交差は下り坂になり、オレはそこを駆け下りる。身体を反転させるような気分で、脇にある小道に入った。
――ホテル。
覚えている。
その公園に隣接するように、小さなホテルがある。こぢんまりとしたアパートのような、あまりホテルらしくはない建物。
オレは、その前に立った。
――廃ホテル。
やっぱり。そこにあるのは、もうホテルではなかった。すでに営業を止めて、ずいぶん経っているようだ。看板も撤去されていた。脇にある小さな入り口には黒と黄色のロープが張られ、『立ち入り禁止』と書かれた看板がぶら下がっている。
息を飲んだ。
――ここだ。
間違いなく、夢でみた建物だ。
オレは『立ち入り禁止』をまたいで進む。
ドアには鍵がかかっていなかった。
それを引き開けると、きぃ、と悲しげな音が聞こえた。
■久瀬太一/7月25日/16時10分
ビルの内部は、冗談みたいに荒れていた。
フロントの面影はカウンターしかなかった。
絨毯かなにか、見栄えの良い表層がはぎ取られた床はコンクリートがむき出して、あちこちが黒ずんで汚れ、皿か花瓶か、割れた陶器の破片がちらばっていた。壁際に残されたソファは当然のように破れて中の綿がみえている。カウンターの向こうの戸棚は脚が折れたのか傾いている。
――こんな場所に、みさきがいるのか?
なぜ? 正常な理由ではないだろうと思った。
オレはゆっくりと廊下の先へと進む。
まず目指すべき場所は、おおよその予想がついていた。バスからみた景色――あの、壁が崩れ、瓦礫が散らばり、みさきが倒れていた場所。
1階の北側だ、おそらく。あれが本物の未来なら、ここにみさきが現れるはずだ。
廊下を進む。窓はなく、奥は暗い。スマートフォンに、なんとなく入れたっきり使っていないライトのアプリがあることを思い出した。それで周囲を照らしながら進む。
目ぼしをつけた部屋には、スタッフルームとプレートが出ていた。
ドアノブをつかむ。だが、回らない。鍵がかかっているようだ。
オレは思い切りドアを叩く。
「みさき? そこにいるのか!?」
まず思い浮かんだのは誘拐だった。
だとすれば大声を上げるのが正しいはずなんてなかった。
理性がそう判断するよりも先に叫んでいた。
幼い頃の、泣いている彼女の表情が、目の前にちらついて離れない。
もう一度、ドアを叩こうと腕を振り上げた時に、
「……久瀬くん?」
彼女の声がきこえた。
■佐倉みさき/7月25日/16時10分
頬に冷たさを感じて、目が覚める。どうやら床に寝転がっているようだ。
全身が気だるく、身体の片面が特に痛い。瞬きをゆっくりと繰り返しながら、半身を起こす。ここはどこだろう? 鈍った頭でぼんやり考える。
軽快な音楽が流れていた。暗い部屋だった。窓はなく、室内に2つだけある光源が目につく。
片方は床に置かれたノートPCで、何か動画が再生されているようだ。音楽はそこから聞こえる。
もう片方は、やはり床の上でちかちかしている電光表示のタイマーだ。
――タイマー? なんの?
表示された時間が秒刻みで小さくなっていくのに合わせて、次第に、自分の置かれている状況を理解する。
私はどうやら、厄介なことに巻き込まれたようだった。
※
脚本を書くのが好きだ。――いつからだろう?
中学に入って間もない頃に観た映画の影響かもしれない。でもラジオドラマを聴きはじめたのもその頃だから、理由は曖昧だ。なんにせよ物語、それも、うんとわかりやすい話が好きだった。勧善懲悪と呼ばれるやつ。
だからフランス映画よりはディズニーの方が好きだし、アフタヌーンよりは週刊少年ジャンプ派で、大学3年生にもなってそんなことを言っていると知人には「いい加減卒業したら」と嫌味よりも真摯な心配として言われてしまうのだけれど、そんなとき私は精一杯、反抗的な顔を作って「君こそ自分の卒業を心配した方がいいよ」などと言い返すのだ。
実のところ、子供っぽくみられるのは嫌じゃない。むしろ、そうあり続けたいと思ってさえいる。理由は特にない。生理的に、遺伝的に、そうでないといけない気がするのだ。
脚本を書くのが好きで、子供っぽくみられるのは嫌いじゃない私には、魔法の呪文をふたつ持っている。
ひとつ目はこうだ。
――これも取材。
胸の中でそう唱えると、大抵のことには物怖じしなくなる。雰囲気が独特な飲食店に入る時に、道に迷っている様子の外国人に声をかける時に、私はよくこの呪文を使う。
でも今回はそれが災いしたようだった。
昼になる少し前、気まぐれにTUTAYAでも覗いてみようと私は家を出た。あまり道幅のない路地を歩いていた時、隣に国産のワゴンが停まった。シルバーの、なんの特徴もないワゴンだった。
窓が開き、スーツ姿の男が「すみません」と私に声をかけた。
ワゴンとスーツの組み合わせは、マッチしているとは言い難かったけれど、違和感というほどでもなかった。それよりも私は男の表情に抵抗を感じた。彼は何かに怯えているようだった。口元が強張っていて、目を見開いていた。
「なんですか?」
私が足を止めると、彼はワゴンを降りた。エンジンはかかったままで、ドアは開いたままだった。
危険な香りというのがどんなものなのか、よく知らない。でも私はあの時それを感じたのだと思う。
逃げた方がいい、と本能が言った。
でももしかしたら体調が悪いだけかもしれない。なにか切羽詰った問題が起こって私に声をかけたのかも知れない。人通りの少ない道だが、まったくの無人ということもなかった。こんな時間からそうそう危険なことも起こらないだろうと安心してもいた。
――これも取材。
胸の中でそう唱えて、私はスーツの男と向き合った。
「どうかしましたか?」
と改めて尋ねる。
男は言った。
「センセイはどこにいるか、知っているかい?」
先生?
なんのことだか、わからない。
「いえ」
私は首を振る。
「そう」
男は顔しかめて、頷いた。
それから彼は続ける。
「ところで、大丈夫かい? 顔色が悪いようだけど」
叫ぶような、大きな声だった。それはこちらの台詞だと言いたかった。
こちらに寄りかかるように、彼の身体が傾く。立ちくらみだろうか、と思った時、お腹に衝撃を感じた。殴られたのだと理解するのに、少し時間がかかった。
息を詰まらせている私の肩に、スーツの男が腕を回した。
「やっぱり。私は医者だ。すぐ病院に行こう」
また。叫ぶような声。その直後、首筋にちくりと痛みを感じた。
急速に遠のいていく意識に、私はただ混乱していた。おそらく、なにか睡眠薬のようなものを注射させたのだろう。
悪魔にも体温はあるのだな、と男が呟いたように思う。
※
そして起きてみたら、この部屋だ。
わけがわからなかった。まずは携帯電話を探したが、それが入っているはずの鞄は、近くにはないようだった。
首筋に触れながら、スーツの男について思い出そうとする。でもそれは上手くいかない。あの怯えたような、怖ろしい表情ばかりが鮮明で、他は意識に残っていない。
怯えた顔が怖ろしいというのも不思議なことだった。でも思えば、般若の面も怯えいているようにみえなくもない。あの男の表情は般若に似ていた。
――私は、誘拐されたのだろうか?
他には想像できないが、だとすれば手足を縛られてもいないのは不思議だ。
なぜ私は襲われたのだろう。誰かに恨みを買うような人生を送ってきただろうか。やはり今ごろ実家に、身代金の電話でも入っているのだろうか。それとも純粋に変質者だったのだろうか。どの想像にも現実味がないように思った。
本能で明かりを求めたのだろう、私はノートPCの前に座り込む。
そこでは動画が再生されている。さっきからずっとリピートだ。ボーカロイド曲だろうか、人間とも機械ともつかない声が、どこか懐かしくて疾走感のある曲を歌う。デフォルメされた可愛らしいイラストが、その曲に合わせて走っている。今この状況には不似合いな明るさだ。
なんだか聞き覚えのある曲だった。私はこのリズムを知っていた。だけど具体的な記憶には繋がらない。首筋にへんな薬を注入されたからかもしれないし、このあまりに唐突な出来事に混乱しているからかもしれない。よくわからない。なんにせよ、音楽なんかに気をとられている場合でもなかった。
ノートPCの向きを変え、周囲を照らしてみる。
がらんとした部屋だ。正面の壁には縦に長いロッカーが並んでいる。右手の方にドアがある。床の跡から、かつてはいくつも棚が並んでいたのだろうと想像できたが、今は撤去されている。
部屋の真ん中にあるのは、もう一方の光源だった。カウントダウンを続ける赤い数字。それはクッキー缶ほどの箱に表示されているようだった。隣には『BATTERY』と書かれた大きな箱がある。
カウントダウンとバッテリー、ふたつの箱は太く黒いコードで繋がれている。そしてカウントダウンがある方の箱からは、赤と青、2本のコードが飛び出ている。
まさか、と思った。
それは時限爆弾のようにみえた。
本物の形状なんて知らない。でもあの赤と青は、テレビで何度かみたことがある。わかりやすい死の象徴だ。あれを切れというのか? 私に? どっちを? ふざけている。
こんな、素人の書いた脚本よりもチープなシチュエーションで、私は震えていた。無意識にポケットを探った。指先にふたつ目の魔法が触れて、取り出す。
キーホルダーだ。幼い頃、大切な人から貰った、大切なプレゼント。赤い帽子を被った少年のような、子供っぽくてわかりやすいキャラクターのマスコットがついている。このキーホルダーには幸運の魔法がかかっている。
――助けて、久瀬くん。
彼がこんなところにやってくるはずがないとわかっていた。
でも胸の中で彼の名前を唱えると、多少は震えが収まったように思った。これが私の知っている、もっとも効果的な呪文だった。
もちろん魔法なんてものが、この世界には存在しないことなら知っている。それでも勇気を奮い立たせるのも、心を落ち着かせるのも、言葉のリアルな力だ。
キーホルダーを握りしめたまま立ち上がり、ドアへと向かう。恐怖と暗闇のせいで、平衡感覚が定まらない。後ろではボーカロイドが無機質に歌っている。
金属製のドアに触れた。もたれかかったと表現した方がいい体勢だ。手のひらに冷たい質感が伝わる。ノブを掴もうとする。でも、上手くいかない。
視線を落とす。
愕然とした。
ドアノブが、ない。
切り取られたのか、その跡はコンクリートで塞がれている。
――助けて。
言葉にならず、代わりに嗚咽に似たうめき声が出た。胸の中では繰り返し、助けてと叫んだ。
そんなことをしても仕方がないのに、私はぺたぺたとドアに触る。その冷たさを再確認し、絶望感で胸がいっぱいになる。
と、ふいに、ドンと。
振動が、ドア越しに伝わってきた。
なぜだか暖かな、鼓動のような振動に感じた。
それから、もっと熱を帯びた声が聞こえた。
「みさき? そこにいるのか!?」
私は、その声を知っていた。
最後に彼の声を聞いてから、ずいぶん時間が経っていて、まったく違う声だと言ってもよかったけど。でも。
彼の声は、あの頃とまったく同じように聞えた。
私はドアに両手をついて、おそるおそる、尋ねる。
「……久瀬くん?」
★久瀬へ:ホテルに爆弾が敷かれてるかもしれないから注意して行動してほしい
→【制作者からのメール】 賢明で行動力に溢れる諸君。 残念だが、現在は電波が入っていない。
今回送信されたメールは、近々彼に届くだろう。
■久瀬太一/7月25日/16時20分
オレはドアに両手をつく。
「こんなところで何してんだよ?」
「そっちこそ。どうして……」
「なんとなくだよ。なんだっていいだろ」
君が倒れている未来をみて、なんて、いちいち説明していられない。
「ドア、開けてくれよ」
「ダメ。ドアノブがないの」
「ない?」
「なんか、コンクリートで埋まってて」
やはり彼女は誘拐されたのか? ――誘拐。現実味のない言葉だ。でも、未来がみえるバスよりはいくぶんリアルな言葉だ。
「窓から出られないのか?」
「窓がないの。この部屋」
「わかった。警察に電話するよ」
「それはだめ。ごめん、走って呼んできてもらえる?」
彼女の声は震えていた。ここにいた方がよい、と思った。
ポケットに手を突っ込みながら、尋ねる。
「どうして? 電話した方が早い」
「ここには悪い人がいるから。みつかると面倒でしょ」
それならなおのこと、早く警察に伝えた方がいい。どれだけ走っても電波には勝てない。
スマートフォンのホームボタンを押し、電話のアイコンに触れる。ライトのアプリが終了して、なにもみえなくなった。
暗闇の中で、か細いみさきの声が聞こえる。
「久瀬くん。まだそこにいる?」
「ん? ああ」
「ありがとう。でも、早く行って」
イチイチゼロ、と入力して、発信する。
「久しぶりに会ったんだ。話しをしようぜ」
「でも――」
ふいに背後から、男の声が聞こえた。
「その部屋には爆弾があんだよ」
同時に、後頭部で、衝撃が弾けた。
一瞬、意識が飛んだのだと思う。
自分がどこにいるのかわからなくなった。頬に固いものが当たっていて、それでオレは倒れているのだと理解した。頭に激痛がある。何かで殴られたようだ。
耳元に転がっていたスマートフォンから、声が聞こえた。
「どうされました? 聞こえていますか?」
そちらに手を伸ばす。でも指が触れる直前、白い手袋がそれを拾い上げた。
「ああ、すみません。時報と間違えました」
男だ。片手に警棒のようなものを持った男。彼は通話を切ってしまう。スマートフォンの明かりが、サングラスの顔をぼんやりと照らす。
ドン、と音が聞こえた。みさきがドアを叩いたようだった。
「久瀬くん! どうしたの? 大丈夫!?」
男が警棒で、ドアを叩き返した。より大きくて暴力的な音が響く。
その反響が消えて、スマートフォンの明かりも消えて、辺りが静まり返ってから男は言った。
「ヒーロー気取りか? でもな、入り口見張ってねぇはずねぇだろ馬鹿が」
ほんの数歩の距離を、ゆっくりと、男が近づいてくる。
「オレには許せないもんが300個くらいあるんだ。トマトの汁でしけったサンドウィッチだとか、イヤホンから下らねぇ音楽を漏らしてるガキだとか、当然みたいな顔して列に割り込むじいさんとかだ。こっちは座りたくて電車を一本見送ってんだよ。ふざけんなってんだ」
背中に衝撃を感じた。それはすぐに痛みに変わった。うめき声を飲み込む。意味のない強がりだ。
頭上から男の声が聞こえる。
「誰だってそうだ。誰にだって許せないもんがある。例えばいきなり目の前でヒロイックなラブシーンをはじめる馬鹿とかだ。駅で抱き合ってる奴らはみんな死ねばいいんだ。ドア越しに叫びあう奴らなんて最悪だ。お前らのことだよ」
もう一度。今度は肩の辺りに、痛みが飛んでくる。
暗闇の中で、自分がどう倒れているのかも、よくわからなかった。
ただの勘で手を伸ばす。
期待通りの感触が、指先にあった。
男の足。闇雲につかんで、噛みついた。
男が小さな悲鳴を上げる。
「……ああ。殴られても反抗的なガキは、嫌いじゃない」
立ち上がろうとした。
その直後、また頭に衝撃を受けて、そこで意識が途絶えた。
■佐倉みさき/7月25日/16時25分
「こんなところで何してんだよ?」
久瀬くんだ。
ドアの向こうに久瀬くんがいる。
そのセリフを彼の口から聞くのは、これで2度目だ。懐かしくて、なんだか奇妙に感情が高ぶって、泣きそうになる。
「そっちこそ。どうして……」
冷たいドアに額を押しつけて、尋ねる。
本当に、どうして。
だって彼に最後にあったのは、もう十年以上も前だ。どうしてこんな時に、こんな場所で再会するなんてことが起こるのだろう?
信じられなかった。
でも、昔から彼はそうだった。私が本当に怯えていたり、悲しんだりしていると、必ず現れて救ってくれた。キーホルダーを握る。
久瀬くんの声が答えた。
「なんとなくだよ。なんだっていいだろ」
よくはない。彼はいつだって無茶をしていた。しかもそのことを、あまり自覚していない節がある。
「ドア、開けてくれよ」
「ダメ。ドアノブがないの」
「ない?」
「なんか、コンクリートで埋まってて」
「窓から出られないのか?」
「窓がないの。この部屋」
「わかった。警察に電話するよ」
きっと彼はこのまま、ドアの前から動かないつもりなのだろう。本心ではそうして欲しかった。でも、だめだ。どうにかして追い返さないといけない。今すぐにでもスーツがやってくる可能性だってあるし、すぐ近くに爆弾がある。
「それはだめ。ごめん、走って呼んできてもらえる?」
慌てるな、と自分に言い聞かせる。もしも私が悲鳴のような声を上げれば、彼はきっと頑なにここから動こうとはしない。
「どうして? 電話した方が早い」
「ここには悪い人がいるから。みつかると面倒でしょ」
しばらく返事がなかった。彼は立ち去ったのだろうか。きっとそんなことはないだろう、とわかっていた。
「久瀬くん。まだそこにいる?」
「ん? ああ」
やっぱり。
「ありがとう。でも、早く行って」
「久しぶりに会ったんだ。話しをしようぜ」
なんと答えていいのかわからなかった。でも何かをいわなければならないのだ。
「でも――」
ふいに、久瀬くんではない声が聞こえた。
「その部屋には爆弾があんだよ」
同時に、なにか大きな音が聞こえた。
なんだかわからない、けれど鈍く不吉な音だった。
――瞬間、わけがわからなくなった。
とてつもない恐怖が目の前で弾けて、それで、なにもみえなくなった。
何度かドアを叩いて、何度か叫び声を上げたような気がする。無意味なことだと知っていた。
やがて、ドアの向こうが、静まり返った。その時私は、両膝を床についていた。
「久瀬くん」
ともう一度、彼の名を呼んでも返事はなかった。
静寂。背後から、明るいボーカロイドのメロディだけが聞こえている。
いつの間にか流れていた涙を拭う。
ゆっくりと背後を確認すると、その隣で、タイマーのカウントダウンが残り4時間35分を示していた。
★★★17:32 動画「少年ヒーロー」発見。http://www.nicovideo.jp/watch/sm24066270
■佐倉みさき/7月25日/18時10分
いったいどれくいだろう? ずいぶん長い時間、私はカウントダウンタイマーの赤い数字をみつめていた。
なにも考えられなかった。
でも、いつまでもショックを受けているわけにもいかない。
私は息を止める。両手でぱん、と頬を叩く。
とにかく、できることをみつけなければならない。部屋の中を見渡す。
目についたのは、やはりノートPCだった。
――まさか、こんなことでどうにかなるはずもないけれど。
床であぐらをかき、足の上にノートPCを乗せる。ブラウザの検索バーに「警察」と打ちんだ。「インターネットに接続されていません」だとか、「このページは表示できません」だとか、そういったエラーメッセージが表示されるだろうと思っていた。
だがエンターを押すと、小さなウィンドウが飛び出た。どうやらパスワードの入力を求められているようだ。右上の終了ボタンでウィンドウを閉じる。モニターではまだボーカロイド動画がリピート再生されている。
次に私は、F5キーを使って、ページをリロードしてみた。その作業は簡単に成功する。ほんの一瞬、まばたきのように画面がホワイトアウトして、また同じページが表示される。
――インターネットには、接続されている?
画面の真ん中の再生ボタンを押すと、また動画が流れ始めた。クレジットのあとで曲のタイトルが画面に現れる。
『少年ヒーロー』
馬鹿みたいなタイトルだ、と思った。でもその率直さは嫌いではない。
二分割された画面の左側に女の子が、右側に男の子が表示される。女の子はどこか落ち込んだ様子で座り込んでいる。男の子は夜の街並みを走り抜けていく。疾走感のあるメロディーで、よくわからない歌詞が流れていく。
――そして。
画面の上を流れていくコメントに、息を呑んだ。
そこにはいくつもの、私の名前が並んでいた。そのコメントたちは、私がここに書き込むことを求めているようだった。
――なに、これ?
正直なところ、まず感じたのは恐怖だった。
いきなり誘拐されて、爆弾があって、知らない動画に自分の名前が流れていて。
いったい、なにが起こっているのか、理解できなかった。
――でも。
私は息を呑む。
――こんな状況なんだから、動かないと、どうにもならないじゃない。
私には2つの魔法がある。
キーホルダーを握りしめる。久瀬くんは、来てくれたのだ。
そして、もうひとつの魔法が、目の前を流れていく。
佐倉さん! これも取材 ですよ!!
息を吸って、吐いて。
私は、キーボードを叩いた。
■佐倉みさき/7月25日/18時30分
どうして、私を知っているんですか?
そう打ち込んだ。
動画のコメントでは、「私」が誰だかわからないと気づいて、後ろにカッコをつけ、佐倉、と書き足す。
それから、私は動画を流れるコメントを、必死に追う。
――彼らは、ソル。
私と、そして久瀬くんの仲間。
わけのわからない事態だけれど、その言葉には説得力があるように思った。
だって普通に考えて、今ここに、久瀬くんが来てくれるなんてあり得ないのだ。きっと彼には、誰か協力者か、情報の提供者のような人がいるのだろう。そう信じることにする。
動画の向こうにいる人たち――ソルたちはまず、私にコメントの打ち方を伝えた。
文字を赤く、小さく下に、コメントの前にはマークをつける。
★これでいいですか?
そう打ち込んで、コメントした。
それから気づく。これだけじゃ、誰だかわからない。焦っている。手に汗をかいている。落ち着け、と自分に言いきかせる。久瀬くんは助けにきてくれた。これも、取材。
★これでいいですか?(佐倉)
それから、状況を打開する方法をみつけようと、私は必死にコメントを睨む。
■久瀬太一/7月25日/18時45分
目を開けても視界はぼやけていた。
頭と肩の辺りに痛みが残っていた。
――いったい、オレはどれだけ気を失っていた?
時間の感覚がない。
どうやらオレは、ロープで椅子に縛りつけられているようだった。木製の小さな椅子だ。オレの身体には合わず、窮屈に感じる。
カーテンのない窓から空がみえる。ちょうど夕暮れ時だ。尖った赤い光が射し込み、部屋の中の影を色濃く目立たせる。
どくん、と心臓が跳ねる。もう目の前まで、夜が迫っている。
オレは辺りを見渡す。
どうやら客室のひとつのようだ。目の前のベッドに、男が腰を下ろしていた。
オレを殴った、あのサングラスとは違うように思う。スーツを着た、どこにでもいるサラリーマンのような男。40歳くらいにみえる。
――誘拐犯は、複数いるのか?
そいつはベッドから立ち上がり、オレの目の前まで歩み寄る。
「君は何者だ?」
男はこちらを見下ろしていた。
こちらが見上げることを望んでいるような気がして、意地になって、オレはじっと正面を睨んでいた。
「何者だ、と訊いているんだ」
男は感情を感じない動作で、隣のテーブルを蹴った。そこに載っていたプリント用紙が宙をすべる。
「あんたたちこそ何者だよ?」
「質問に――」
「ああ。やっぱり答えなくていい。どうせそのへんの小悪党なんだろ。自分の要領が悪いのを人のせいにして当り散らしてるタイプだ」
男は、今度はオレを蹴った。
どうしてだろう? 昔から何かを強要されるのが嫌いだった。反射的に反発してしまう。それで状況がより悪くなるとわかっていても。こんなにも恐怖で指が震えていても、だ。
なんとなく宮野さんのことを思い出す。彼女は強引だったが、それほど嫌な感じはしなかった。そこそこ可愛い女性だったからだろうか。現金なものだなと自分で思う。
「どうしてここに来た?」
「ただの散歩だよ」
「ふざけるな。なぜ、ここがわかった?」
「さあな。神さまが教えてくれたんだろ」
「お前はスイマか?」
「ああ。オレがスイマだ」
「ふざけるな」
男は、先ほどまでよりもずいぶん荒々しく、感情的にオレを蹴った。
椅子に縛りつけられているオレは、どうしようもなくそのまま倒れた。蹴られたところよりも、床で打った側頭部の方が痛かった。
「選ばれるのは私だ。誰にも邪魔させない」
――選ばれる? なんのことだ。
涙で滲んで、また視界がぼやけた。
ぼやけた視界で、先ほどテーブルから舞い落ちたプリントがみえた。それは何かの設計図のようだった。
「悪魔を捕らえたのは、私だ。私は誰よりも教えに忠実だ。悪魔は自ら死を選ぶ」
オレはじっと、プリント用紙を眺める。
これは、ラダー図か?
右の方にひらがなで、「ばくはつ」と書かれている。
ふいに思い出した。
――あの、サングラス。
あいつはみさきがいる部屋に、爆弾があると言っていた。
■佐倉みさき/7月25日/18時50分
あまりに、目の前の出来事が非現実的だからだろうか?
いつの間にか、恐怖が少しだけ薄らいでいた。
私はともかく、目についたコメントに応える。
――佐倉さん 時限装置なのですが、赤と青のコード以外になにか目に付くものはありませんか?
わからない。時限爆弾なんて、みたことない。私には普通の時限爆弾にみえる。
――周囲の物や状況について教えてください。
ここにあるのはノートPCと、時限爆弾だけだ。――いや、違う。そのふたつに気をとられてよくみていなかったけれど、右手の壁に、5つのロッカーが並んでいる。
そう書き込むと、反応があった。
――ありがとう、ロッカーに不審なものとかあるかな?
そうだ。調べよう。ひとつずつ。
私はロッカーの前に立つ。右端にあるドアを開いた。
がらんとしたロッカーだか、底の部分になにかが落ちている。
――ペンチ?
私はそれを拾い上げてみる。やはりペンチだ。ペンチなんて手にしたこと、人生で数度しかない。見た目よりも重いような気がした。
――これで、あの線を切れっていうの?
赤と青、ふたつの線。
悪趣味だ。
2分の1の確率に、命をかけたくはなかった。でも私はそのペンチを、とりあえずポケットにいれる。
2つ目、3つ目とロッカーを開くが、なにも入っていなかった。
あまり期待もせず、4つ目を開く。
軽く驚く。そこには、黒いトートバッグが入っていた。
■久瀬太一/7月25日/19時05分
オレは椅子に縛られ、床に転がったまま、目の前の図をじっと眺める。
――これを読み解けば、みさきを助けられるのか?
いや、でもどうやって解除方法を伝えればいい? オレはしばられ、身動きがとけない。
スーツの男は再びベッドに腰を下ろし、懐中時計を眺めている。
「ああ、もう日が暮れてしまうじゃないか」
と男は言った。
「今夜はパーティなんだよ。悪魔が自ら死を選ぶ、聖なるパーティなんだ。君みたいな、望まれない客はいらない」
「悪魔ってのは、佐倉みさきか?」
「もちろんだ」
どうして彼女が悪魔なんだ、と尋ねる気はなかった。
誘拐犯がどんな主張を持っていようが、どんな正義を振りかざそうが、知ったことじゃない。聞くまでもなくみんな却下だ。
でもひとつだけ、先ほどの男の話で気になったことがあった。
「教えってのはなんだよ?」
さきほどこいつは、「私は誰よりも教えに忠実だ」と言っていた。
教えによって悪魔を殺すのか? その悪魔がみさきだというのなら、こいつの他にも、彼女を狙っている奴がいるのか? 一体誰がそんなことを教えてやがるんだ。
男がちらりと、こちらを見下ろす。
「やはり、君はスイマではないな」
「どうして?」
「スイマが教えを知らないはずがない」
「スイマってのは誰だ?」
「君には関係のないことだ」
微笑を浮かべていた男の表情が、ふいにこわばる。
「いや。だが、なぜだ? どうして君が、ここに来られた?」
そんなことオレが知りたい。
暗号を解いたのはソルだ。ソルってのは何者だ? それさえわからない。
暗号の答えは、オレの記憶に繋がっていた。どんな偶然なんだ。想像もできない。
男はこちらを睨んでいる。
「スイマではない君が、どうしてここに来ることができた?」
重要なのはみさきだ。彼女の元には今、爆弾がある。
男が声を張り上げた。
「おい、答えろ! どうしてお前は、ここに来た!?」
オレは答える。
「ヨフカシ」
それがなんなのか、もちろん知らない。
でもあのきぐるみは言ったのだ。
――ヨフカシを捜すんだ。ヨフカシはスイマの中にいる。
ヨフカシというのも、きっとこいつらに繋がっている。ならその名前は、使えるかもしれない。
「オレはヨフカシに頼まれてここに来たんだよ。悪魔に話がある。彼女に会わせろ」
スーツの男はベッドから立ち上がる。
「ヨフカシ、だと?」
彼はこちらに歩み寄り、オレの頭を蹴った。どうやら判断を間違えたようだ。
「ふざけるな! 本当にいたのか! ふざけるな! 消えてなくなれ!」
男は自棄になったように、繰り返しこちらの顔を蹴る。痛みに痛みが上塗りされ、わけがわからなくなる。鼻から温かいものが流れた。くそ、オレはなかなか鼻血が止まらない性質なんだ。
「なんてことだ。……スーツが汚れてしまったじゃないか」
そう言ってまた、男はオレを蹴る。
また意識が薄らいでいった。漠然とした、死への恐怖のようなものを覚えた。
思い出したのはあのきぐるみの、不気味な笑顔だ。
――お前は、なんなんだよ?
オレを助けたいのか、苦しめたいのかはっきりしろ。
■佐倉みさき/7月25日/19時10分
5つ目のロッカーには、なにも入っていなかった。
私はトートバッグを手に、ノートPCの前に戻る。この部屋の中でいちばん明るい場所がそこだし、コメントをチェックしたいというのもあった。
ノートPCからもれる光に照らしながら、トートバッグを開いてみる。
中には半分に折り畳まれた厚手の紙が1枚入っているきりだった。
表紙に当たる部分に、『聖夜通信』と書かれている。会報かなにかのようだ。
――なんなの、これ?
7月号と書かれているけれど、西暦などは記載されていない。このビルの人が残していったものなのか、あとから持ち込まれたものなのかも判断がつかない。
私はその文面をざっと目で追ってみる。
だが、ここを出る手がかりにはなりそうもなかった。
■佐倉みさき/7月25日/19時25分
動画に、気になるコメントが流れた。
※
こっちは爆弾の設計図を見ることができてます。赤青どちらを切っても危険そうです。そのまま待機で。
※
――そうか。
背中を、冷たいものが走った。
――犯人は私に、あのコードを切らせたかったんだ。
だから私は手足をしばられることもなく、この部屋に閉じ込められているのだ。
なら、赤と青、どちらも間違いだというのは説得力のある話だ。
わかりました、どちらも切りません、とコメントする。
――でも。
じゃあ、どうすれば、この爆弾は止まるんだろう?
★★★爆弾の解除方法を確定。
■佐倉みさき/7月25日/20時20分
じっと動画をみつめていると、ひとつのコメントが、目に飛び込んできた。
それは他のコメントと同じ速度で左へと流れていく。私は慌てて、シークバーを操作して、停止ボタンを押した。
※
間違いない、タイマーボックス「のみ」を振ればタイマーが止まる!!
※
そんな馬鹿な、と思った。
私は爆弾に目をむける。
振るって、そんな。爆発しないのか?
タイマーボックスというのは、あの赤い数字が動いているものだろう。つまり、爆弾の本体にみえる。
性質の悪いいたずらだと思った。
でも、とはいえ。時限爆弾には2本のコードの他にスイッチのようなものはない。分解することも難しそうだ。もし本当に解除方法が用意されているのだとしたら、そしてそれがあのコードではないのだとしたら、振動というのは納得のいく答えだった。
私はカウントダウンを続ける時限爆弾の前にしゃがみ込む。
軽く、ぽんと、その冷たい外装を叩いてみた。反応はない。赤いタイマーは今も無機質にカウントを進めていく。悪魔の足音みたいに。
私は再び、PCの画面に視線を向ける。
――と、私の不安を吹き飛ばすように、
※
バッテリーに触らずにタイマーだけ振るらしい
佐倉さん、タイマーBOX「だけ」振ってみてください!!
タイマーのみ振ってみてください!!
※
動画に、いくつものコメントが流れていた。
※
タイマーBOXのみ振ってください。
爆弾を強く振ってください
タイマーの方だけを振って下さい。
佐倉さんタイマーBOXを振って!!
佐倉さん、時限爆弾のタイマーの部分のみ振ることは可能でしょうか?
タイマーのみ振ってみてください!!
★★★恐ろしい状況で一人耐え抜いてくれてありがとうございました。
遂に解除法が判明しました、赤と青の線が出ている箱だけを小刻みに振ることで停止できます。
※
私はカウントダウンを続ける時限爆弾の前にしゃがみ込む。
軽く、ぽんと、その冷たい外装を叩いてみた。反応はない。赤いタイマーは今も無機質にカウントを進めていく。悪魔の足音みたいに。
私は唾を飲み込む。
――やってやろうじゃない。
心臓が強く鳴っていた。
それに、ボーカロイドの歌声が重なる。
胸の痛みに顔をしかめる。恐怖で涙が滲んでいた。
曲がサビに入る。
悪い奴らを片っ端からなぎ倒し進む奇跡の熱。
なんだそれ。無理やりに苦笑する。わけわかんない。でも、なぜだか私は、その熱を知っているような気がした。
私はもう一度ノートPCに視線を向けて、それに軽く触れてみた。
内部でファンが回っている。その振動を感じる。PCはほのかに温かい。それはきっと、私の体温よりも少しだけ高い温度だ。
――ああ、そうだ。
思い出す。
――久瀬くんの手も、温かかった。
彼に会いたい。もう一度、彼の顔をみたい。
だから息を止めて、その冷たい箱をつかみ――
ビンタするように、私は思い切りそいつを振った。
■佐倉みさき/7月25日/20時25分
涙で滲んだ視界で、赤い光が、弾けて消えた。
タイマーから、時刻表示が消えている。
――止まった。
止まった、止まった、止まった。
本当に止まったのだ!
私は胸の中で何度も、止まったと繰り返す。腰の辺りに力が入らなくて、その場にへたりこんだ。
深く息を吸って、吐く。私はまだ生きている。
このまましばらく、へたりこんでいたかった。でも、まずはお礼を言わなければならない相手がいる。
私はノートPCを手元に引き寄せる。
それから、目元をぬぐって、キーボードを叩いた。
ありがとうございます! カウントダウンが止まりました!
皆さんは私の、命の恩人です!!
【BREAK!!/BAD FLAG-02 爆発 回避成功!】
■佐倉みさき/7月25日/20時40分
私はまだ捕らえられている。
それでも、爆弾は止まったのだ。
――きっと、反撃のチャンスはある。
誘拐犯には、私に対する明確な殺意があった。そう仮定する。
なら、時限爆弾を止めたことは、あちらにとっては想定外なはずだ。爆発が起こらなければ、必ずこの部屋の様子をみにくる。間違いない。それが起こるのは、あのタイマーがゼロになる予定だった時間の少しあとだろう。
――この部屋にはドアがひとつしかない。
窓さえない。敵が来る方向はわかっている。
私は部屋の中を見渡す。なんでもいいから、武器になるものが欲しかった。硬くて、そこそこの重量があるもの。
目についたのは、ノートPCだった。
とりあえず画面を閉じ、両手で持って振ってみる。心もとないが、素手よりはましだろう。
興奮状態にあるせいか、恐怖はあまり感じていなかった。人間よりも爆弾の方が怖ろしいと思った。
私は再びノートPCを開く。右下にある時刻表示をじっとみつめる。
――予定時刻は、21時。
あと、20分。
その辺りに向かって、あのカウントダウンは進んでいたはずだ。
■久瀬太一/7月25日/21時
爆発のようなでかい音が聞こえた。
「なぜだ!」
スーツが叫ぶ。
部屋はもうどっぷりと闇に落ちていた。
スーツが床においた懐中電灯だけが、まっすぐな光を放っていた。それに照らされて、彼の足元でテーブルが倒れているのがみえる。きっとまた蹴り倒したのだろう。
「なぜ、爆発しない!?」
きっと、午後9時を回ったのだ。
時限爆弾は起動に失敗した。安心して、少し涙が滲んだ。ぼやけてみえる懐中電灯の光は綺麗だと思った。
スーツは部屋の出口へと向かう。オレの存在なんてもう、忘れてしまったようだ。
――きっと、みさきの様子をみにいくんだ。
呼び止めるか? だが、そうしてどうなる?
結局オレにはみさきを救えなかったのだ。
落ち着け、と自身に言い聞かせる。
スーツが部屋を出て、乱暴にドアが閉まる音が聞こえた。。
縛られていて両手は動かないが、足は自由だ。オレは椅子ごと、なんとか両足で立ち上がる。ずいぶん前屈した、なさけない恰好だが、なんとか立てた。
――奴に気づかれるか?
だが、あまり悠長にもしていられない。
背後の椅子を、思い切り壁にぶつける。
がしゃんとでかい音が聞こえた。だが、壊れない。縛られている手が痛い。もう一度、もう一度。力を込め過ぎて転倒する。立ち上がって、また繰り返す。
やがて木製の椅子が、べき、と音を立てた。
さらに繰り返しながら全身に力を込めると、背もたれの部分が折れる。それで縄が緩んだ。どうにか、椅子から解放される。
オレはドアを押し開け、通路を走る。
はっきりとは位置はわからないが、元々は小さなホテルだった建物だ。それほど複雑な構造なわけがない。ポケットからスマートフォンを取り出し、ライトのアプリで辺りを照らす。
――間に合うか?
男は、みさきをどうするつもりなんだ?
わからない。急ぐしかない。
窓からみえていた景色で、ここが1階ではないことはわかっていた。3階か、4階のように思う。階段をみつけて駆け下りる。暗い。上手く足元を照らせない。だが不思議と、段を踏み外しはしなかった。
何度か踊り場を回ると、階段が途切れた。1階だろう。見覚えのある廊下だ。みさきが捕えられている、スタッフルームも近い。
そちらに向かって走る。あのドアの前に、もうひとつ光源があった。
スーツだ。懐中電灯を持っている。
その尖った光が、こちらを向いた。
「お前、どうして――」
答えるはずがない。
速度を緩めず、オレはスーツの顔を思い切り殴りつける。
懐中電灯が廊下で跳ねて、どこか、あてのない方向を照らした。
「みさき!」
ようやく叫べた。スタッフルームのドアノブを掴むが、回らない。きっとあのスーツが鍵を持っているはずだ。
「すぐにここを開けてやる。ちょっと待ってろ」
振り返るとスーツの男が、懐中電灯を拾ったところだった。
■佐倉みさき/7月25日/21時05分
そろそろ時間だ。
私はノートPCを手に、ドアの前に立った。
――反撃を、相手は予想しているだろうか?
私は自身の行動を想像する。とにかく先手を取るべきだと思った。ドアが開くと、すぐに行動した方がよい。
敵に駆け寄る。まず一発殴る。思う存分恨みを込めて。それから、一目散に逃げ出そう。
――久瀬くん。
彼は無事だろうか? できるならこのビル内を駆け回って、彼を探したかった。それは許される行動だろうか? わからない。敵がひとりだけなら、なんとかなるような気もした。そう思うと、はやくこのドアが開いて欲しかった。
ごくり、と喉を鳴らす。じんわりと背中に汗をかく。ノートPCを構える手が震える。それが重さのせいなのか、立て続けに起こる緊張のせいなのか、自分では判断できない。
たぶん10分ほど待っただろうか。いや、さすがにそれは嘘だ。きっと、もっと短いはずだ。私は正常な心理状態ではない。少なくともそのことは自覚していた方がいい。そう考えた時、足音が聞こえた。
こちらに近づいてくる。
もう一度、喉を鳴らす。気配がドアの前で止まる。
来る。ノートPCをぎゅっと握る。
「みさき!」
と、声が聞こえた。
頭の中が真っ白になった。久瀬くん?
よかった。無事だったのか。安心して、今日何度目かの涙が滲む。身体から力が抜けた。
彼の声に応えようとして、その時だった。
なにかが、口元にぶつかる。
――え?
手? どうして?
それは冷たい手だった。冷たい手が、背後から私の口を塞いでいた。ノートPCが落下する。足元で鈍い音が響いた。
強い力で押さえつけられたまま、それでも強引に首を捻ると、かろうじてサングラスをかけた顔がみえた。男だ。さっきのスーツとは違う。細身だが背の高い男。
どうやって? と、まず思った。この部屋には、さっきまで、私ひとりしかいなかった。絶対に。
隠れる場所はない。窓もない。ドアは開いていない。理解できない。
「まだ生きてたのかよ。奇跡的だな」
口元を塞がれたまま、もう一本の腕が、私の首に絡みついた。息ができない。
「でもな、奇跡ってのは、絶望的に数が足りないから奇跡って呼ばれるんだよ」
音が遠くなる。
久瀬くんがドアの向こうでなにかを叫んでいるけれど、上手く聞きとれない。自分の鼓動すら、ぼやけて聞こえる。
意識が遠のくのを感じた。
■久瀬太一/7月25日/21時10分
スーツが通路の奥へと走っていく。その後を追いながら、オレは110番にコールする。
電話が繋がったとき、スーツの持っている懐中電灯の明かりが消えた。
気にせずオレは、電話につげる。
「女の子が廃墟に連れ込まれています」
相手が何か言っていたが、一方的にどうにか覚えていた町名と、ホテルだった建物だと告げた。ホテルの名前までは記憶していない。
「早く来て――」
ください、という前に殴られた。スーツがこちらに近づいていることは足音でわかったから、覚悟はできていた。スマートフォンが手から飛び出す。
空いた手を、スーツがいるはずの場所に伸ばす。指先に何かが触れる。がむしゃらにそれを掴んで、もう一方の手を握りしめる。思いっきり振ると、とりあえず相手には当たったようだった。低いうめき声が聞こえた。
もう一度、もう一度。おそらくスーツの胸の辺りをつかんだまま、オレは目の前を殴る。うまく呼吸できなかった。人を殴るのなんて、何年ぶりだろう。
「待て」
とスーツが言った。待つはずがなかった。
もう一度殴ると、指からスーツが抜け落ちた。奴が転倒したようだった。
足元で何か光る。スーツが懐中電灯のスイッチを入れたのだ。眩しくて、思わず目を細める。
懐中電灯の光には、別の輝きが混じっていた。
スーツは床に座り込んだまま、小ぶりなナイフの刃をこちらに向けていた。
「待て。動くな」
ともう一度、スーツが言った。
さすがに、刺されたくはない。警察には連絡を入れたのだ。このまま動かずに済むなら、それも悪くはない。
見下ろして尋ねる。
「お前、それでどうするつもりだ?」
「あいつは悪魔だ。悪魔は自ら死を選ぶ」
「そんなこと訊いてねぇよ」
足を踏み出し、ナイフを持っているスーツの手を蹴る。どこかにナイフが飛んでいく。
――もう必要なことはしたんだ。あとは時間を稼げばいいんだ。
と、理性は言っていた。気にせずにオレはまた、スーツに掴みかかる。
こんなにもオレは短気だっただろうか? ――いや、こいつは誘拐犯だ。みさきを殺そうとしたんだ。これで短気ってことはない。
倒れ込むように男の顔を殴る。下から殴り返される。痛くない。馬乗りになって、何度も拳を突き出す。
――どうして、みさきが誘拐されてんだよ?
世の中はたまにおかしい。ぶん殴れば、それは元に戻るのだろうか? きっとそんな単純な話じゃないなと思いながら、オレはまたスーツを殴った。
■久瀬太一/7月25日/21時20分
ふいに泣き声が聞こえてきた。すぐ手元からだった。
「どうして」
スイッチが入ったまま転がっていた懐中電灯で、スーツの顔がみえていた。
奴は泣いていた。
思い切り顔を歪めて、子供のように声を上げて。
「私は正しいことをしたんだ。どうして、こんな目に合うんだ」
その言葉に、ひどく苛立った。
でも泣いている相手を殴る気にもなれず、オレは拳を宙で止めた。
スーツは掠れた声で、どうして、どうしてと繰り返している。
なんなんだよ、こいつは。
奴のポケットに手をいれてみるが、反応はなかった。
指先に触れたものをひっぱりだし、懐中電灯を掴んで照らす。財布。中には免許証も入っていた。写真は間違いなく目の前のスーツだ。これがあれば、逃げられてもすぐ警察が捜し出すだろう。
携帯電話。手帳。どちらも一応、貰っておく。
ズボンのポケットから、小さな鍵がみつかった。きっとこれが、みさきがいるスタッフルームのものだろう。
オレは立ち上がる。懐中電灯で床を照らし、壁際でナイフをみつける。それを拾い上げて、歩き出す。
背後からはまだ、スーツの泣き声が聞こえていた。
警察が来るまで、奴の腕を掴んでいるのが正解なのかもしれない。
でも今は、みさきを優先したかった。すぐ泣くんだ、あいつは。もうずっと前の思い出だけど。
気が抜けたのかもしれない。全身が痛みを思い出していた。くそ、なんだこれ。どこが痛いのかもよくわからない。重たい疲労のように、痛みが全身にのしかかっていた。
足元がおぼつかないまま、廊下を進む。
懐中電灯で先を照らす。
スタッフルームのドアが、開いていた。
※
みさきが、いない。
――どうして?
辺りをライトで照らす。ドアは内側から壊されているようだった。それで、安心する。内側からなら、きっとこれをしたのはみさきだ。彼女は自力で部屋を抜け出したのだ。
はは、と笑った。よかった。足から力が抜けて、座り込む。
ようやく遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。
【7/25 22:00-22:18】メリーとニールの会話
トナカイ > ニールさん、いらっしゃい。 (07/25-22:00:11)
トナカイ > メリーさん、いらっしゃい。 (07/25-22:01:02)
★ ニール > メリー。今日は報告がみっつある。
★ ニール > みんな最悪の報告だ。
★ メリー > なんですか?
★ ニール > あのスイマ、悪魔をみつけたが、誘拐しようとしてしくじった。
★ ニール > 今ごろは檻の中だ。
★ メリー > 悪魔……そうですか。
★ ニール > 助けるかい?
★ メリー > いえ、必要ありません。
★ メリー > 間違ったことをしたなら、反省し、それを正すのも「英雄」の教えです。
★ ニール > そうかい。ま、どうでもいいさ。
★ ニール > 悪い報告、ふたつ目だ。
★ ニール > あのスイマ、例の箱を紛失してやがった。
★ メリー > ……なるほど。
★ ニール > 面倒だが、すぐに取り戻すよ。
★ ニール > ただ、警察が持っている可能性がある。
★ ニール > オレの足でも、少しタイミングを選びたい。
★ メリー > いえ。もう数日は、放置してください。
★ ニール > いいのかい?
★ メリー > ええ。あるいは何者かが、あの箱を開けてくれるかもしれませんよ。
★ メリー > 物語はすでに、ほつれ始めているのかもしれません。
★ ニール > もしも今、箱を持っている奴が、あれを開けられなかったら?
★ メリー > この件には関わらないよう、手を回してください。
★ メリー > 出来る限り平穏な方法で。
★ ニール > オーケイ。
★ ニール > ま、オレなりの平穏でがんばるさ。
★ ニール > で、3番目だが。
★ ニール > いま、オレんちに悪魔がいるんだ。
★ ニール > すげぇ邪魔なんだが、どうしたらいい?
★ メリー > ……数日以内に、別の者に引き取らせます。
トナカイ > ニールさん、さようなら~。 (07/25-22:18:23)
トナカイ > メリーさん、さようなら~。 (07/25-22:18:30)
■佐倉みさき/7月25日/22時20分
奇妙に息苦しかった。
周囲は薄暗い。どこか、フローリングの上に転がされているようだ。そう間もなく、また誘拐されたのだ、と気づく。
今度は手足が縛られていた。口にはガムテープか何かがはりつけられている。べったりと頬を覆う粘着面が気持ち悪かった。
首を動かし、辺りを見渡す。
広い部屋だ。高級マンションのリビングのような印象。ずいぶん散らかっているようだ。目の前に、ポテトチップスの空袋がある。
部屋の真ん中あたりのソファに、男性が腰を下ろしていた。私の首を絞めたサングラスだろう。
彼はこちらに背を向け、携帯電話に向かって、ぼやくように何か話していた。
「知らねぇよ、捕まったんじゃねぇか?」
「お蔭で、余計な荷物を背負い込むことになった」
「さぁな。成り行きだよ。なるようになるだろ。……ああ、メリー次第だ」
メリー? なんだ、それ。羊しか思い浮かばない。
ひどく疲れていた。できるなら眠ってしまいたかった。あのサングラスはまだ、私が意識を取り戻したことには気づいていないようだ。
私は再び目を閉じる。泣きたかった。心が折れそうだ。これも取材、だとはさすがに思えない。
――助けて、久瀬くん。
胸の中で、またそう唱える。彼は無事だろうか。
「じゃあな、八千代。そのうち温泉でも行こうぜ」
明るい声でそう告げて、男は電話を切った。
■久瀬太一/7月25日/22時30分
警察にスーツの身柄を引き渡したところまでは覚えている。
その後は記憶がなかった。オレは上手く、事情を説明できただろうか?
目を開くと、オレは再びあのバスターミナルにいた。人の気配はない。なんの音もしない。目の前にバスが停まっている。そのライトがオレを照らしている。行き先表示は、『8月24日』。ずいぶん先だ。
不思議と、驚きはなかった。なんとなくまたここに来るような気がしていた。
オレはベンチから立ち上がる。
バスに乗り込むと、乗客がひとり増えていた。
昨日、原稿用紙を膝に載せて眠っていた女性の隣に、別の女性が座っている。2人はよく似ていた。顔立ちも、服装も。でも髪の長さだけが違う。原稿用紙の方はロングで、その隣はショートカットだ。
――双子だったのか。
双子で、みさきを思い出した。彼女にも双子の姉がいる。
ショートの方は、手のひらほどのサイズのビデオカメラを持っている。その液晶で、なにか映像を再生しているようだった。音声は聞こえない。
「よう。さっさとこっちにこいよ」
と、また最後尾から声が聞こえた。
そこにいるのは、やはりぼろぼろのきぐるみだ。
少年ロケット。
その不敵な笑顔がむかつく。
頭を掻いて、オレはきぐるみに向かって歩く。
「ずいぶん疲れている様子じゃないか」
と、きぐるみが言った。
隣に腰を下ろしながら応える。
「ぼろぼろで、へとへとだよ。さっさと家に帰りたい」
シャワーを浴びて眠りたかった。そういえば昨日は汗を流していない。思い出すと不快感が膨れ上がった。
「でも、ともかくお前は、7月25日を乗り切った」
「ああ。どうにかな」
「ソルは頼りになるだろう?」
「それは否定しないよ」
オレは視線を窓の外にむける。そこには無人で無音の不気味なターミナルがあるだけだ。
「で、またオレに不吉な未来をみせるのか?」
「わかってきたじゃねぇか」
「とはいえ、今回は少し余裕がありそうだ」
「余裕? どうしてだ?」
「行き先が8月24日だった」
まだひと月ほどある。すぐ明日ってことはない。少なくとも今夜、シャワーを浴びるくらいの時間はありそうだ。
きぐるみは、けけけ、と作り物めいた笑い声を上げる。
「そう油断はできねぇぜ? 終着点が、8月24日ってだけだ」
ドアが閉まり、バスが走り出す。
「お前、何が目的なんだよ?」
と尋ねてみた。
「そのうちわかるさ」
ときぐるみは答えた。
バスはトンネルの中に入る。
■久瀬太一/7月25日/22時35分
オレンジ色のライトが、きぐるみの横顔を不吉に照らしていく。
男性とも、女性ともつかない、無機質なアナウンスが聞こえた。――次は7月27日です。
「おい、明後日じゃないか」
「ああ。いいだろう? 倍も時間がある」
「ふざけんなよ」
オレはバイトと就職活動をしたいんだ。真っ当な大学三年でいたいんだ。
バスがトンネルを抜ける。
※
窓の外にみえたのは、オレの部屋だった。
――またかよ。
どうしてマンションの3階がバスの窓からみえるんだ。
まったく、ふざけている。いまさら常識なんてものに期待もしていないけれど。
暗い時間だ。部屋の中の時計は、午後8時を指していた。その手前で、2人が向かい合っていた。
一方は、オレだ。手にはスマートフォンを持っている。それを、じっと覗き込んでいた。
もう一方は、サングラスをかけた男だ。はっきりとはわからない。だが、今日あの廃ホテルで出会った男のように思った。
サングラスはオレに拳銃をつきつけていた。――拳銃。それも、フィクションじみている。
「お前には箱を開けられなかった」
とサングラスは言った。
テーブルの上には、見覚えのある小さな箱が置かれている。あの、アタッシェケースに入っていた小箱だ。南京錠のような、不思議な鍵が、4つもついていた。
「偽物は、死ね」
発砲音。同時に、バスがまたトンネルに入った。
【BAD FLAG-03 4つの鍵】
※
しばらく口を開けなかった。
きぐるみがその不気味な顔を、こちらに近づける。
「どうだい? 自分が死ぬ姿をみるのは」
オレはゆっくりと首を振る。
「ショックだよ。もちろん」
なんてことだ。あと、たった2日で、オレは撃ち殺されるのか。
「どうすればオレは生き延びられる?」
「知らねぇよ。箱を開けるんじゃないか? さっきの話の感じだと」
「どうすれば箱を開けられる?」
「どうしてオレに訊くんだよ。オレは少年だぜ? 難しいことはなーんにもわからねぇんだ」
オレはため息をつく。どうしろってんだよ、一体。
軽い口調できぐるみが言う。
「さて、そんなことは置いといて、だ」
「オレが死ぬのがそんなことかよ」
「本番は、これからだ。バッドエンドは8月24日に訪れる」
きぐるみがそういうのと同時に、再びバスが、トンネルを抜けた。
※
今度は、道端だ。
オレはいない。――7月27日に死ぬのなら、当然か。
そこにいたのはみさきだった。
佐倉みさきが、両目を見開いて、まっすぐにこちらをみていた。
彼女の胸には赤い染みがあった。初め、それは小さな染みにみえた。だが急速に広がっていく。朝顔が咲くのを早送りでみているようでもあった。
彼女の口元から一筋、赤い血が流れて、そして。
みさきはゆっくりと、前のめりに倒れた。
【BAD FLAG-?? 8月24日】
※
オレは額に手を当てる。
――なんてことだ。
また、彼女なのか。どうしてまた、彼女が血を流すんだ?
不条理だと思った。納得できなかった。
「どういうことなんだよ!?」
思わず、叫ぶ。
だが相変わらずきぐるみは気味の悪い笑みを浮かべている。
「まずは、お前が生き延びろ。話はそれからだ」
いや、そりゃ生きてたいよ。どうしろってんだよ?
「そろそろ時間だ。また明日会おうぜ」
ときぐるみは言った。
「毎晩出てくるつもりかよ」
「毎晩ってことはねぇよ。オレだって暇じゃねぇんだ」
「お前にどんな用があるんだよ」
「子供は遊ぶのが仕事だよ」
「ロケットだろ。飛べよ」
「もちろん。どんどん飛び出すぜ」
思わずため息が漏れた。こいつとは会話が成立しない。
バスが停まり、ドアが開く。オレは席を立った。
「じゃあな」
「ああ――」
ぼそりと、きぐるみが言う。
「ソルを信じろよ」
ソル。だから、何者なんだよ、そいつは。
オレは肩をすくめてみせる。
「だんだん、信じてもいい気になってきた。でもあのスマホ、電波入ってないぞ?」
「いろいろ難しいんだよ。ソルはずっと遠い場所にいる。でも、本当に大事な時には、その声が届く」
「そんなもんか」
「ああ。そういう風にできている」
オレはきぐるみに背を向けて歩き出す。
とにかく、明後日、生き延びなければならない。
■久瀬太一/7月25日/22時45分
目を覚ました時、オレは白いベッドの上にいた。消毒薬の匂いがしたわけでもないけれど、ここが病院の一室だとわかった。
オレは頭を掻く。全身がまだ痛いが、骨が折れている様子もなかった。とりあえずベッドから立ち上がり、身体が動くことに安心する。
――オレは。
きっと、警官の前で気を失ったのだろう。そして病院に運ばれた。ポケットが膨らんでいて、オレはそこに手を突っ込む。2台のスマートフォンがあった。逆のポケットから、さらに携帯電話がもう1台出てくる。財布も2つあり、オレのじゃない手帳もあった。
脳がずいぶん鈍っているようだ。携帯電話、財布、手帳。それらは、あの誘拐犯から奪ったものだ。警察に提出した方がいいだろう。
――いや、待て。
オレはあの箱を開けないといけない。
アタッシェケースに入っていた、4つの鍵がついた箱。今日の誘拐犯と関係があると考えるのが普通だ。なにか、鍵を開ける手がかりがあるかもしれない。
ベッドに腰を下ろし、オレはまず携帯電話をいじってみた。だが、液晶が割れている。電源を入れようとしても反応しない。バッテリが切れているだけなのか、それとも完全に故障してしまったのか、オレには判断がつかない。
次に手帳を開く。
――と、一枚の写真が舞い落ちた。
拾い上げる。
これは――トランプ?
だが、一般的なものとは少し違うようだ。写真に並ぶトランプは、4色に塗りわけられていた。
オレはその写真が挟まっていたページを確認する。
簡単なメモが、項目を4つにわけて書き込まれていた。
これは? また、暗号なのか?
4項目――小箱についている、鍵の数と一致する。
でも今日、ソルが解いてくれたものに比べて、ずっと情報量が少なそうだ。これだけで、答えが導き出せるものなのだろうか?
わからない。
じっと手帳を眺めていると、部屋の扉がノックされた。看護師か、あるいは警察か。きっとどちらかがやってきたのだろう。
オレは手帳をポケットにしまい、「はい」と返事をした。
――To be continued
★★★手帳(1)、トランプ画像より:「黒姫童話館」「時間どろぼう」
★★★手帳(2)、動画『少年ヒーロー』より:三重県鳥羽駅
★★★手帳(3)、動画『少年ヒーロー』より:長野県
7月24日(木) ← 3D小説「bell」 → 【メリー1】7/25 公開されなかったシーン / 書籍P:130
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最終更新日 : 2015-07-30