【可士生】
- 存命の噂 -
可士生は1984年2月20日に当時のハウスカノープス(現・ヒルカノープス)によって実行された交通事故を装った暗殺計画により死亡したはずであるが、現在も生きているという噂が流布している。 当時のハウスカノープス自体には可士生を暗殺する理由はなかったようだ(2011年10月に行なわれた調査の結果を受けて)。 しかしヒルカノープスに現在残されている記録では確かに計画の成功を示すものがあり、計画を実行した人物の所在が焦点となっている。 また噂の出処については、はっきりしない部分が多い。
可士生が後期に所属していたハウスブルーの一員である畠本操による資料を入手した。 ただしその資料は事実に基づくものではなく、畠本によって偽造されたものと思われる(畠本は自身の経営する児童養護施設を、可士生の死後運営できなくなり閉鎖しており、その死を悔いるあまりに幻想に囚われていた)。 その資料によれば、可士生のもとに1984年1月末頃に「あなたは怯えているだけ」というメッセージが届いていたらしい。 その発信元などは一切不明とのことだ。可士生はとくに変わること無く過ごしていたものの、同年2月29日(当時はうるう年)に件の交通事故が発生。 畠本には簡単な電報でそれが伝えられたきりで詳細は分からなかったようだ。 畠本は2011年に退屈男と自称してインターネット上に姿を現していたが、その後死亡している(ベルゼブブによる計画と見られる)。
- 合同調査の失敗 -
監視者メシエ:ユークリッドによる合同調査の試みが失敗に終わったことは、ベルゼブブの組織解体によってさらなる波紋を呼んだ。 ベルゼブブの持つ広大で強力な情報ネットワークはバブルガムにおける最大のライブラリであり、1984年の可士生暗殺についても核心を得る記録があった可能性は高い。 しかし合同調査の試みにプロパガンダ的な意味合いを付加したせいで、つまりは'私たちにはこんなこともできる'と無様に言い触らしたばかりに、その重要なライブラリは崩れ去った。 もちろん監視者メシエも、事前に堅牢なセーフガードを施したであろうことは想像に容易いが、あくまでも結果論で語られるべきである。 この合同調査はバブルガムからの指揮とされたものの、実際には監視者メシエからの上申を以って行なわれていた。 要するにこの施策は、監視者メシエによる'潤い欲しさ'であった。その代償はとても大きい。 だが、ベルゼブブの組織解体という事実も、裏を返せば'何か知っていて、それを隠し通したい'ということになる。もしくは、この組織解体自体が何かの囮なのだろうか?
- 人物像 -
1960年代の生まれと言われているため、現在もまだ生きているとしたらその年齢は50歳前後。バブルガム創成期からの重要人物。 昭和後期(昭和61年以後だという)に「ハウス・ブルー」というハウスを設け、バブルガムの中枢から距離を置いていた。
【Z4コンピューティング】
- 実在 -
認識主体から独立して客観的に存在するとされるもの。夢や妄想のように認識主体により生み出されたものは区別される。また、表象を変化させる事物の背後にあるとされる不変の実体を意味する場合もある。
- 非ノイマン型コンピュータ:Z4コンピューティング -
Z4コンピューティングの研究によって、非ノイマン型コンピュータ:Z4コンピューティングによる圧倒的な超並列処理が実現される見通しだ。 Z4コンピューティングの詳しい仕様については最重要機密としここでも言明はしないこととする(私自身、まだ理解し切れていない部分が多いこともある)。 Z4コンピューティングによってこれまでのコンピュータでは実現不可能とされていた複雑なソフトウェアアーキテクチャをごく単純な命令で実現できるようになる。
- Z4 -
非公開技術の研究を行う研究所。これはそのコードネーム。そこでの研究は完全に守秘されており(勿論IEEEなど各学術団体に公表されることも一切無い)、 利害関係による障壁などを取り除くことができる。連絡先などはあちらで報告をする。
- 提案 -
Z4コンピューティングをベイカーベイカーの主要構想にすべく提案
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【02/24(金)】Arthur D. Lindsey文書【記録(1)】


2012年2月1日/記録(1)
私はアーサー・D・リンゼイと言い、表向きはとある軍用航空機メーカーのマーケティング部に勤務している。若かりし頃に横須賀ベースに赴任した経験が、日本とアメリカの本社の戦略をつなぐ現在の仕事に役立っていることは確かだ。そして、そんな私に伝道師が声をかけてきたのは、まさに私がトラステッド・コンタクトとして活躍できると判断したからだろう。
私が伝道師の友人になったのは2006年の5月、移民たちが法に抗議の声をあげ、誤魔化しを続けた役員がその罪を問われていた頃だ。それから2ヶ月後には、闇に閉ざされた者どもが漏らす怨嗟の言葉を掘り起こし、選りすぐったことで信頼すべき仲間として受け入れられたわけだから、やはり伝道師の仕事は私に向いていたのであろう。私自身、事ここに至るまでは、伝道師としての役割に何ひとつ疑問を持つこともなかった。
この記録は、伝道師として私が知り得た幻夢のように掴み所のない組織と、その組織を作り上げたレイ・カシウという亡霊、そしてその組織を内部から腐らせようとする蝿の王に関するものになる。もっとも、どれだけの時間が私に残されているかはわからない。可能な限り、人混みの中に身を置くようにはしているが、私の前任者にあたるペーターも、私と同じく亡霊を追いかけていたハタモトも既に原因不明の死を迎えているのだ。
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【02/24(金)】Arthur D. Lindsey文書【記録(2)】


2012年2月3日/記録(2)
私たちは多くの出来事の関連性を格段、意識することなく日々を過ごしている。なぜなら、私たちの脳は知らなくてもよい情報を自動的に遮断することで処理を速め、負荷を減らさなければならないからだ。だが、ある日、散在していた個々別々の出来事が結びつき、真実がその輪郭を浮かび上がらせるときがくる。
私がその輪郭に気付いたのは、2011年8月14日に起きたある出来事と、そのおよそ1ヶ月前に亡くなったデベロピング・コンタクトが残したメモを読んだときであった。発端は2011年7月17日にデベロピング・コンタクトの1人であったタカシ・マキが死亡したことによる。マキはバブルガムが分裂をした1989年頃にデベロピング・コンタクトとなった、古参の協力者の1人であり、ナンバー6というコードネームで私たち伝道師の間でも知られた人物であった。
マキは、当時、彼が潜伏していた世田谷のマンションで死んだ。私たちが入手した警察資料や目撃者情報によると、マキは死亡する数日前より、高熱や吐き気を訴えており、室内には血性嘔吐の跡があった。司法解剖を行った医師は、外傷が皆無であったこと、マキが慢性的に肝炎を患っていたことから、敗血症性ショックによる多臓器不全と診断した。私たち伝道師の間でも、この情報に疑念を持つ者はいなかった。だが、1ヵ月後に起きたある出来事の経緯を探るうちに、私はマキの死に対して強い疑念を抱くに至った。
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【02/26(日)】Arthur D. Lindsey文書【記録(3)】



2012年2月5日/記録(3)
その出来事は2011年の8月14日に起きた。その日、バブルガムの中でも有数の規模を誇る大ヒル・ベルゼブブの本部を、目尻に深く皺の刻まれた、痩せぎすで、いかにも神経質そうな男が訪れた。男は慇懃に挨拶をすると、ディーン・P・リチャードソンと名乗った。だが、そんなことをしなくともベルゼブブの担当者は、男のことを知っていた。男は、前年まで、このベルゼブブの最高責任者で、今は、バブルガムに属する組織へ様々な情報を伝達する伝道師たちの統括者であった。
私が調査をしたところによれば、リチャードソンは施設を一瞥すると即座に、ベルゼブブが入手していた『デベロピング・コンタクト殺し』に関する全記録を伝道師の管理下におくと宣言した。『デベロピング・コンタクト殺し』とはキャリアと呼ばれていた私たち伝道師の前身にあたる者たち8名が、1982年の7月15日に不可解な死を遂げた事件である。そして、昨年7月に死んだナンバー6、タカシ・マキは『デベロピング・コンタクト殺し』に関与した人物として、バブルガム本部から追われていた。
だが、いずれにせよ、ここでのリチャードソンの行動は、私たち伝道師の役割を大きく逸脱していた。私たち伝道師は、収集した情報を整理、編集することはあっても、情報の流れを管理することはない。ヒルに対する外部干渉とも言えるリチャードソンの行動を知ってしまった私は、彼の周囲を調べると共に、事件の鍵を握る死者、マキの調査に没頭した。いまにして思えば、私は、この時点で気付くべきだったのだ。探求の先に深く暗い闇があることに。
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【02/26(日)】Arthur D. Lindsey文書【記録(4)】



2012年2月7日/記録(4)
私が見たマキのメモは、彼が死んだ世田谷のマンションから、極秘裏に回収されたものであった。回収を指示したリチャードソンは、メモに関する一切を外部に漏らさぬよう、伝道師たちに厳命していた。だから、私がリチャードソンの行動に疑問を感じて、マキの調査を始めたとき、メモはまだ私たちの手元に保管されていた。その内容は、以下のようなものである。
タカシ・マキは、バブルガムの情報伝達者-キャリア-でありながら、KGBの積極工作にも協力をするダブルエージェントであった。しかし、ダブルエージェントの積極工作を主導していたレフチェンコ少佐が、1979年にアメリカへ亡命すると、順調だったマキの活動に暗雲が立ちこめる。少佐の裏切りを許さないKGBが、マキを捕らえ、少佐が構築したネットワークについて詰問をしたのだ。
命の危険を感じたマキは、キャリアの仲間をKGBのデベロピング・コンタクトに仕立て上げることで、その場を切り抜けた。そして3年が過ぎ、少佐が米下院の秘密聴聞会で対日工作活動について暴露することを知ったKGBは、デベロピング・コンタクトの殺害を決定した。マキは、自分が仲間をデベロピング・コンタクトに仕立て上げたことが露見するのをひどく怖れていた。このため、リチャードソンがベルゼブブに籍を置いていたときから、何年もデベロピング・コンタクト殺しについて調査をしていたことも把握しており、リチャードソンを異常なまでに警戒していた。
同時にマキはその背景に1989年のバブルガム分裂騒動以前から、この奇怪な組織をまとめていた「ともし火」と呼ばれる者たちと、分裂を境に生まれた2つのヒルが、人知れず互いを貪り合い続ける醜悪な歴史があると言う。メモの中には、こんな走り書きもあった。
『ホラ貝は失われた。蝿の王が全てを覆い尽くそうとする』
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【2012年3月3日(土)】「1-3」
1-3(A:群青の家):http://447624804312.com/
28年前の閏年も日曜日から始まった。
その年は私にとってあまりにも大きな変化をもたらすものだった。その年を境に私は、死んだことになっている。自分がやってきたことのせいで、私は、そのときすべてを失った。しかしそれは当然の報いであり、エゴの代価だった。私自身、こうして生きていられることに戸惑いもあった。そのときの私はこの命を投げ出したいと考えていたし、そうすべきだとも考えていた。だが、私はいまここにいる。私は救われたんだ。それどころか、いまの私には、ひとつの目標がある。大きな目標がある。だから私は、自らの運命を変えたあの日と同じときに、再び、運命を大きく変えようとしている。もしも賛同いただける方がいるのなら、ぜひあなたの手を貸して欲しいと思う。私が何を云っているのか、これを読んでいる多くの人には理解が難しいかもしれない。だが、これから書くすべてのものは、現実に、このときこの世界で起きていることだ。もちろん判断を強制するつもりは毛頭ないので、受け止めるかどうかはあなた方に委ねたいと思う。
私の名は可士生礼。これは私の本当の名前ではないが、その「世界」ではずっとこの名で通ってきた。ただ、その「世界」自体は自らの名を残したまま記憶を失った。いまや別人のようになってしまったその世界は、「バブルガム」と呼ばれる秘密結社だ。そこで行われていた事実について、これから記していく。
元を辿れば、たった9人の友人の集まりであった。
1983年、すでにバブルガムは世界に拡がっていた。バブルガムの関係者は、当時のOECDのすべての加盟国に分布するまでになっていた。そこで行なわれていたのは、初期と後期で大きく変わってくる。初期の頃…1970年代には、まさにゲームのような活動であり、私が好んでいたのがこの時代だ。体系的な組織のようなものはなく、秘密を守ることを誓った者たちと、ちょっとした事件を起こすというもの。それが後期、少なくとも私がいた頃については、様々な団体と手を組み、実利のある活動を初めた。
まさに人が人を呼び、結社としての格好を整えてくると、加速度的に規模は大きくなっていった。はじめ、仲良しクラブのようなものであったのと比べると、後期のバブルガムは常識的に考えて不合理なほどの規模だった。それでもバブルガムへの加盟は完全招待制を一貫し、個人または団体が、既存のハウスから招待されることでのみ加盟できるようにした。もし招待された者が不適切な場合、他のハウスがその招待を取り消すことで純度を保つ。こうして隠密裏にネットワークを拡げていったが、加盟者を宗教や人種といった属性で縛ることはなく、その自由度が、バブルガムの「経済」の発展を推したという。私は「経済」について関心はなかった。私が関心を寄せていたのは本当は、この退屈な世界を変えるところにあった。なぜバブルガムが、国際的にも稀に見る規模にまで成長を遂げたのか。
それは私と友人の決裂の原因ともなった。
2-3
0345906901/5224#
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【2012年3月3日(土)】「2-3」
2-3(A:6427):http://447624804312.com/2-3
私が何かを絶ち切ることを恐れて、いつまでもぬるま湯に浸かっていたのがいけなかったのかも知れない。
崩壊のカウントダウンは1976年の冬から、もう始まっていた。二十を迎えた私たち9人は居酒屋で落ち合った。そこで、バブルガムを秘密結社にするという、くだらない冗談としか考えられない話が一人から持ち上がった。勿論、その場では笑い話として終えた。数日後、同じ友人から、再び話題を持ち掛けられた。私を呼び出して二人きりでの話だったから、この前とは温度が違うのを自然と感じた。
私とその友人…阿賀野(あがの)は、9人の中でも中心的な役回りだったので、わざわざ呼び出されたのだと思う。そこで阿賀野は、一人で作った計画を私に話してきた。バブルガムを招待制で人を集める結社にし、加盟者間による子組織…のちにハウスと名付けられる…を設けて、より長期的な展望で活動しようというものだった。私は依然として現実味のない話をすると思ったし、そもそもシリアスな活動になってしまう気がして前向きには乗れなかった。私は単純に楽しめれば良いと考えていた。だが私は阿賀野の迫真にも押され、試しにやってみるのも面白いだろうと頷いた。このとき、私がもっと真剣に判断をしていれば、世界はきっと変わっていたのかも知れない。
一度計画を始めてしまってからは、いかにして、不真面目なことを真面目な態度で成功させるかという動機が働くようになり色々なことを試した。阿賀野は組織の管理を、私はハウスへの指示や計画立案を担った。さらに翌年が、最も大きな転換点になった。9人の間で行っていた拠金を組織全体に拡大させたのだ。拠金を募り、それを、優秀と評したハウスに幾らか分配した。バブルガムに経済が発生した瞬間だった。優秀なハウスを招待したハウスにも何割かを分けることで、バブルガムに良い循環が生まれた。このとき、私も、他の仲間たちと一緒になって組織の拡大を祝福した。どこかに違和感を抱えてはいたが、仲間たちとのパーティーを楽しみたいあまりに、意識的に忘れていたのかも知れない。私は決めることから逃げて、逃げていることも意識すらしていなかった。そして、私が何も決められないまま、1983年、バブルガムはOECD加盟国のすべてにハウスを持つに至る。計画立案をしていた私の名は必然と世界に広まって、いかにも実際を知らない、不相応な脚光を浴びるようになっていた。
3-3
Find phone number
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【2012年3月3日(土)】「3-3」
3-3(A:9173):http://447624804312.com/3-3
自分の知らないところで偶像ばかりが大きくなり、いつのまにか見せていた虚栄に押し潰されそうだった。
そのとき唐突に私は気付いた。自分が目指していた世界は、こんなものでは無いということに。忘れていた違和感が衝動的に込み上がって、私は皆に問い正した。しかし賛同は得られず、逆に私は孤立した。私は9人の仲間を脱退して、自分から世界を変えようと小さなハウスを設立したが、ハウスの中からも良い理解は得られなかった。
仕方なく独自の活動を続けることにしたが、1984年2月20日、私は殺された。ただ実際には、そのしばらく前から疑わしい動きがあったことに気付いていた私は、2月20日に「殺されたこと」に仕立てた。それから私は社会的にも「いない者」となり、窓の外で震えて過ごすようになった。私はそれが妥当だと受け入れていたが、すべてを失った心持ちに違いはなかった。
そこに、あるはずのない救いの手が差し伸べられたのは1986年。私はそのご加護の元、これまで過ごして来られたのだ。無くなったはずのこの命を無駄にはできない。私は決意し、自らの死んだ閏年と同じ2012年、ここに復活を宣言する。これを見ているスクリーンの向こうのお友達へ。また月が上弦になるとき、あなたが選択するのなら、ここにまた来て欲しい。
さあ、愉快に。憂いなきことを。
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最終更新日 : -0001-11-30