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私が何かを絶ち切ることを恐れて、いつまでもぬるま湯に浸かっていたのがいけなかったのかも知
れない。
崩壊のカウントダウンは1976年の冬から、もう始まっていた。二十を迎えた私たち9人は居酒屋で
落ち合った。そこで、バブルガムを秘密結社にするという、くだらない冗談としか考えられない話が
一人から持ち上がった。勿論、その場では笑い話として終えた。数日後、同じ友人から、再び話
題を持ち掛けられた。私を呼び出して二人きりでの話だったから、この前とは温度が違うのを自然
と感じた。
私とその友人…阿賀野(あがの)は、9人の中でも中心的な役回りだったので、わざわざ呼び出さ
れたのだと思う。そこで阿賀野は、一人で作った計画を私に話してきた。バブルガムを招待制で
人を集める結社にし、加盟者間による子組織…のちにハウスと名付けられる…を設けて、より長期
的な展望で活動しようというものだった。私は依然として現実味のない話をすると思ったし、そもそ
もシリアスな活動になってしまう気がして前向きには乗れなかった。私は単純に楽しめれば良いと
考えていた。だが私は阿賀野の迫真にも押され、試しにやってみるのも面白いだろうと頷いた。こ
のとき、私がもっと真剣に判断をしていれば、世界はきっと変わっていたのかも知れない。
一度計画を始めてしまってからは、いかにして、不真面目なことを真面目な態度で成功させるかと
いう動機が働くようになり色々なことを試した。阿賀野は組織の管理を、私はハウスへの指示や計
画立案を担った。さらに翌年が、最も大きな転換点になった。9人の間で行っていた拠金を組織
全体に拡大させたのだ。拠金を募り、それを、優秀と評したハウスに幾らか分配した。バブルガム
に経済が発生した瞬間だった。優秀なハウスを招待したハウスにも何割かを分けることで、バブル
ガムに良い循環が生まれた。このとき、私も、他の仲間たちと一緒になって組織の拡大を祝福し
た。どこかに違和感を抱えてはいたが、仲間たちとのパーティーを楽しみたいあまりに、意識的に
忘れていたのかも知れない。私は決めることから逃げて、逃げていることも意識すらしていなかっ
た。そして、私が何も決められないまま、1983年、バブルガムはOECD加盟国のすべてにハウスを
持つに至る。計画立案をしていた私の名は必然と世界に広まって、いかにも実際を知らない、不
相応な脚光を浴びるようになっていた。
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最終更新日 : -0001-11-30